2020年5月25日月曜日

きれいな倦怠

孤独を当然のこととしてうけとめている人間が好きで、自分もできるかぎりそうありたい。ひたすらに交わらない平行線が何かの手違いでほんのわずかに掠るか掠らないかして再び離れていくことがいちばん美しいと思っている。軌道が交わらないことにやすらぎを覚える。退屈か退屈でないかでいうと少し退屈で、寂しいか寂しくないかでいうと少し寂しい。透明できれいな倦怠のカプセルに入って冷たい風を切る。
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これまでに3冊読んだ松浦理英子の作品で描かれている人物に自分の感情を重ねられる隙を見出せたことは一度もなかったけれど、『最愛の子ども』の真汐は初めてわたしにも理解できるかもしれないと思った。この箇所。
わたしは意固地でプライドが高く着けている鎧は重くて固い。日夏は今興味本位でわたしを鎧の上からコツコツ叩いたり揺さぶったりして反応を惹き出し、わたしを楽しませ自分も楽しんでいるけれど、いずれ空穂だけを連れてどこかに行ってしまう予感がする。だから、わたしは日夏とも空穂ともいつでも離れられるように心を鍛える。生涯たった一人でも生きて行けるように心を鍛える。わたしはわたしの中に生まれるわたしを弱くするどんな感情にも欲望にも打ち勝ちたい。やがてはわたしの心は何があっても壊れないほど強く鍛えられるだろう。
生涯たったひとりでも生きていけるように。何があっても壊れないほど。
ところで「男女を描いてもボーイズ・ラブ作品にあるような萌えを生み出すことができるかどうか」という一節に関してはたいへん興味がある。一般的な男女のカップルの女の方になるのはどうもしっくりこないのだけれど、身体を無視して精神の上だけでBL的な関係性というものが成立するならばわたしはぜひBLの受けになりたい。精神的な受動性と能動性の概念を心身の性別から切り離すということ、でもそれだけではない気がする。

2020年5月22日金曜日

ハードとソフト

天候が悪いこともあってお祈りメールであっさりと沈められていた。特定のジャンルの企業と相性がよくないらしいことが可視化されてきたので、諦念によって開きなおる強さはある。職探しのいいところは結果が出るのが早い、すなわち自分の向き不向きとか足りないものがすぐに目に見えるところです。べつの企業のひとから「志望してるところの共通点をみると、ハードよりはソフトが好きなのかな」といわれ、「まさにそれです。人間のなかの柔らかい部分にふれる分野が好き」とこたえて、そうなのかー、と自分で納得してしまった。その点からいうと、電化製品とかハード的な商品をあつかう会社の文化と相性が合わないのだろうなと腑に落ちる。ハードよりもソフトを重視する傾向は、人間の肉体よりも精神の方をついつい追いかけてしまうところにも表れているのだろう。

肉体はハードウェアの仕様に過ぎない、という考えが心地よく感じられるのは、性別をはじめとする身体の分類について深く考えることを避けているからかもしれないし、心身二元論の悪しき思考回路に陥っているためかもしれない。実際問題、人格や思考の形成が身体性から影響を受けないはずがなく、特定の立場でものを考える根拠としても身体が不可欠であることはわかっている。それでもいつか、SFの読みすぎだとしても、人間が意識体だけで生きられるようになったらなんという理想だろうと思う。
円城塔の「チュートリアル」という短編のなかで以下のような一節があるのだけれど、「ロマンス」というものを斜に構えた理屈で解体するかに見える一方で素朴な憧れを排除しないアンビバレンスが円城塔の魅力ですよね。そこがナイーヴでもあるんだけどね。
男性が女性を口説いて一緒に暮らすようになりましたなんていうのは、あまりに男性側に都合のよすぎる話じゃないのか。だからここでは、彼女の方から彼を口説いて、一緒に暮らすことにしたってよいのだが、いやしかし、たまたま出会った女性と仲良くなるなんていうのは、あまりに男性側の願望に寄りすぎなのではないか。少なくとも、男女が偶然、お互いを気にいるなんてことがあったとして、そいつらはどこか抜けているのじゃないか。もっとよくお互いのことを調査検討し、正気で考えてみるべきだし、そもそもが男女という設定だって突っ込んで検討してみる余地はある。女同士じゃ、男同士じゃ駄目だったのか。この話の主人公は、また別の話の主人公とは違う方の性別で、また別の話の主人公が女性だったために男性ということになっていたのだが、これはなんだか、選択やそれに伴う責任を相手に丸投げしているようで、この話の主人公が男性であることをためらうようにみせかけながら、その実厚顔に性別を押し通しているようで、不穏な気配が漂ってくる。
実際のところ、彼が彼で彼女が彼女であるのは、話を簡単にするための都合に過ぎない。本来、彼は女性でもよく、二人の性別が異なる必然性も特になく、ただそういうデータが呼び出されたというだけの話だ。本来は、ゲームのキャラクターを好きにカスタマイズするくらいの手間で、誰もが誰もに置きかわりうるのだと説明される。〔中略〕性別だって好きにしていいし、三つや四つの性別を持つ生き物の世界のデータを読み込んでもよく、無性の生き物という手もある。
この文が体現するようなレイヤーを視界にかぶせさえすれば、少なくとも主観的な世界を涼やかな方向に変えることはできるのではないかという希望がちらつく。
この肉体はたまたま与えられてしまったものであり、わたしが女である必然性は特になく、わたしが好意をいだく相手が特定の性別である必然性もこれまたなく、ほんとうはなにもかも交換可能な世界であればいいと思う。それが夢みたいな願望なのであれば、わたしは白昼夢のなかで生きてゆきたい。
敬愛するバンドことPeople In The Boxが昨年秋に出したアルバムの一曲に次のような歌詞があり、これもなかなか解釈がたのしい日本語。5行目と6行目が同じメロディーで歌われる。
薄い氷に放つ炎
発動した本能
不真面目だもの欲望は
『たとえ戦時下であっても』
自由に性器を交換あれ
二十二世紀の音楽はね
いつまでも終わらない
静かで巨大な
無の視る夢のようだ 
個人の自由な意思決定による身体の選びなおしを推奨するモードについて、皮肉を込めているようにもうけとれるし、いいぞもっとやれ、という方向にも読める。