2020年9月30日水曜日

とげとげつめあわせ

 内定先に所用でメールをしたのだけれど数日経っても返信がないので昼過ぎに仕方なく電話をし、折り返し連絡しますと言われてから業務時間の終わりまであと10分を指す時計を見つめながら電話を待っている。向こうの伝達が遅れているのか、あるいはテレワークの勤務体系では業務時間もフレキシブルに変化するのかもしれない。何時までには折り返すという区切りを確認しておけばよかったと思う。電話は苦手だ。思い返せば内定連絡の電話も業務時間外に来た気がする。そもそも最初に送ったメールは読まれているのだろうか。こういうことがあると会社のバックオフィスがスムーズに機能していないのではないかと心配になる。


院に進んだ知人から、就職先は決まったのか、と問われる。決まったんじゃなくて決めたんです。進路は自動的に決まるわけではない。自分の意思で決めなければ永遠に決まらないし、永遠に決まらないことを選ぶことだってできる。そういう選択肢の中で私は決めることにした。理想的な選択ではないとしても、働かなくては生きていけない身分だから、そして他に情熱を燃やせる対象も持たないから、決断せざるをえなかった。就職活動を本格的に経験してもいない人が、私と違って執着できる研究対象に出会えた幸運な人が、それを「決まった」などという他人任せな言葉の軽さで形容しないでほしい。その言葉の違いがわからないなら私に話しかけるな。名の知れた良い企業に入ることが当たり前であるかのような態度を取るな。その過程で必要とされる個々人の資質と努力をまるっきり無視したような、そこから零れ落ちる存在を知らないかのような、自分が強者の集団に属していることに気づいていないかのような態度を取るな。おまえもいつでも弱者になりうることを忘れるな。虫の居所が悪いと以上のような返答をしそうになる。というか冒頭まで出かかった。


二次面接を担当してくれた、フリーランスから中途入社したという社員の人が、エレベーターホールまで私を送ってくれた後に扉が閉まるまで深々とお辞儀をしていた姿が忘れられない。これが大人として働くということかと思った。その人より一回り以上若くて経験もない、どう考えてもそんなお辞儀に釣り合わないただの大学生である私に、たとえ形式的なものだとしても、体を張って敬意を表すということ。心苦しくて、同時に身が引き締まる思いがした。そのことをずっと反芻している。そこから自分がどういう意味を引き出せるのか、ずっと考えている。


私はあまり長生きをしたくないけれど、本人の意思と無関係に続いてしまうのが命というものだ。生命維持にはお金がかかる。子供が生まれず寿命が延びるこの時代には年金もあてにならないので自力で資産を形成する必要がある。悪くするとこの先50年前後は働かなくてはならないかもしれない。そういう面白くもない、けれど考える必要のあることをこの頃は考える。 50年後に今ある組織が今の形のまま存続するとは毛頭考えていない。飽き性なこともあって、新卒就職前から転職を前提としている。私たちの世代でもぎりぎり一社に勤め上げて逃げ切れる人たちもいるのかもしれないし、公務員なら旧来の制度が維持されるかもしれない。それでも同世代で終身雇用を当然のように考えている人を見ると世界観が違うなと思ってしまう。


電話はまだかかってこない。


訳あって大学4年目を2回やっている。今年こそは卒業しなくてはならない。以前は学部と院をローテーションしながら永遠に大学に在籍し続けられたらと夢みることもあったけれど、今はそうなったら地獄だと思う。早く経済的に自立したい。自立することで自分を肯定したい。という欲望の方が大きい。大学の空間は私にとってシェルターからゆるい牢獄へと変わってしまった。大学を出た世界が新たな牢獄でしかないとしても、獄中の不文律に慣れ切ってしまうまでは新奇な刺激を楽しむことができるだろう。慣れは安心を経由して飽きへと向かう。飽きこそが私にとって最大の地獄だ。


今年こそは卒業しなければならないゆえに、今年は卒業論文を書かなくてはならない。文献を読むことは然程苦ではないはずなので、難関はデータ収集の段階にある。そこさえ通過してしまえば見通しがつく。おそらくは。


電話はまだかかってこない。