長い間絵筆を持たずに過ごしていると描き始めの筆の置き所がよくわからなくなる。線の始まりがどこであっても間違っているような気分になる。記憶と勘をたどっても正解はない。その都度目の前の白紙のうえに作り出していくしかない。ということとは別の問題として、私は文体模倣がとても好きだ。別に今更オリジナリティへの執着も持ち合わせていないし、いくら巧妙に真似をしてもどこかしらに必ず脱線と綻びが生まれるはずだから、絡み合う他者の存在の交点としての自分を、何の抵抗もなく肯定することができる。
生活の環境が意外にも居心地の良いものとして感じられているのは、下宿から運び込まれた自室の本棚とベッド、そして机によるところが大きい。段ボールに換算して4,5箱分にはなっただろう本の山を見た家族が「要塞のようだ」といみじくも口にしたように、大量の本は心の防壁の役割を果たしてくれる。ベッドは精神的なシェルターになってくれる。机は学ぶことを正当化してくれる。私は幾重にも守られている。雨風をしのげる場所があるということは本当にありがたい。
東京に自分の人生はないと思っていた。東京のことをろくに知らなかったのだから当然だった。私は東京のどこに品揃えのいい本屋があるのかも知らないし、使い勝手のいい喫茶店も知らない。これから私に歩かれるべき未踏の道は大通りから路地に至るまで膨大に残されていて、その限りにおいて私は東京で生きていけるような気がしてくる。
社会人になってしまったので、本を読むことにする。大学までの自分とつながりを保つ手段として、仕事とは別の側面で自分を支える一貫した基盤のひとつとして。ろくに勉強をしない学生だったから、むしろこれからが長い旅になるのかもしれない。目の前に現れる色々な矢印になるべく抗っていこうと思う。表面上社会に適応しながら同時に適応しない自分を保ち続けたい。適応と不適応の境界を攻めることがどこまで可能なのかを試してみたい。そんなことを言っていられるのも今のうちだけかもしれないけれど、力尽きたときはそのときで笑いとばしてほしい。