2021年3月28日日曜日

還らぬ日々

手足の爪先、身体の末端から乾いた細かい砂と化してさらさらと崩れていく様子を思い浮かべる。両腕と両脚から完全に感覚が抜けて、私にはもう胴体しか残っていないのだと諦めるように意識を手放すと、いつのまにか眠りに落ちている。便利なやり方を見つけたものだ。眠りをコントロールできるということはまずまず健康だということで、それは喜ばしいことのはずだ。
数日後には勤め人になるらしい。5年も在籍した大学と同じだけ住んだ土地のアパートを離れるのはもう少し感慨深いことかと思っていたのに、手続きに追われるうちに淡々と過ぎてしまって少し寂しく思う。退屈を素直に愛することができたのかはよくわからないけれど、ほどよく情報のすくない、のんびりした学生生活だった。いろいろなひとがいた。好きだった。嫌いだった。いろいろなことが新しくてうれしくてさみしくて傷つくことにすら飢えていて、終いにはそのほとんどから離れてしまった。私はあの場所ではじめて自分の人生を生きた。自分でものをえらび、人をえらび、見る景色をえらび、転ぶ道をえらんだ。同時にそれらすべてから選ばれていた。大袈裟な物言いをしていることはわかっている。それでも私の記憶の中ではそういうことにしておきたいと思う。卒業式には出なかった。
1月に卒論を出して2月に単位をぎりぎり揃えたあとは、ずっと資格の勉強をしながら映画を観ていた。目的を見出しがたかった卒論とレポートから解放された身には実務的な勉強が甘い水のように染み入ってきて、ああやはり私にアカデミアは向いていなかったのだと最後の諦めを得た。役に立つ、と多くの人々からみなされていることを勉強できるとはなんて楽しいのだろう。役に立たないことに本気で取り組めなかったのは、なんて悲しいことだろう。自分は違うと思っていた。そうではなかった。
映画を年間で何百本観ただとか本を何百冊読んだとか、数字自体に意味がないことはわかっているのだけれど、あえて今年は旧作を含めて100本観ることを目標にしている。映画は私にとってここ数年でできた新しい趣味で、触れてきた年数の浅さを埋めるにはある程度の量を集中的にこなすことも必要だと思うからだ。
そういうわけで変に生活が安定してしまっている。つかのまの凪かもしれないと思ってかみしめる。