すでに存在するものの中からあるものを手に取り、あるものは手に取らない取捨選択ができるという意味において(あるいは休日の過ごし方を思いつかずに悩むことがないという意味において)私には思想があり趣味があるといえるのかもしれなかったが、その思想なり趣味なりに沿う新しいものを作り出したい、作らずにはいられない熱量を持たずにここまで生きてこられてしまったことにはまだ僅かな負い目や未練のようなものがあるのだなと、髪を切った帰りにいくつか古書店を覗いて買った本を鞄に詰め、暗くなりはじめた神保町を歩きながら考える。
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新年度なので新社会人か就職活動中と思しき黒髪をひとつに縛った黒スーツの人をよく目にする。パンツスーツの後ろ姿には、スカートを選ばなかった選択の意志が働いているはずなのに、その意志の結果なお既製の型に嵌められている不本意を勝手に感じ取ってしまう。それは私自身が感じていた不本意だった。就職して数年経ち、職場の服装は自由だけれど節目のために、スーツ屋ではないファッションビルのテナントでジャケットとスラックスのセットアップを買う。ジャケット丈はお尻が隠れる長さで、スラックスの幅には肌につかない余裕があり、かっちりとした印象を与えるが身体の線をほとんど拾わないその直線的なシルエットに、リクルートスーツのあの壊滅的なダサさはなんだったのかと憤りに似たものが一瞬頭をよぎる。それからリクルートスーツは無知な若者に無差別に課される産業的罰ゲームなのだとしか思わなくなった。
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1ヶ月前に来たときはカードを使えた記憶がある複数の書店で、決済手段からカードが消えていた。PayPayは使える。キャッシュレスの手数料が馬鹿にならないという話を少し前にツイッターで見たこともあって、「使えなくなった」というより「使えないようにした」という意志がどこかにあるのかもしれないとぼんやり思う。
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買った本をすぐに読むことができない。けれど買うに至ったそのときその場の逡巡や感動や意欲のきらめきは本を見るたびに思い出す。それは記録されてよいはずのものだと思うけれど、書くほどのものではない気もする。
今日は『大崎清夏詩集』、司修『月に憑かれたピエロ』、『名づけられぬものの岸辺にて 日野啓三主要全評論』を買った。詩集は3月に出たもの、後ろ2冊は長島書店で。近頃長島書店でよく本を買う。ピンチョンが何冊かと、埴谷雄高の『死霊』が3冊揃いで出ていて迷ったが、ピンチョンのハードカバーは大きすぎてうちに置く場所がないことは明らかで、『死霊』は1冊目だけ持っているのでダブらせるのもなんだかなと思ってやめた。数年前に手当たり次第に詩や短歌を読んでいた時期があり、その頃に比べれば今はあまり詩など読まなくなって久しいけれど、大崎さんの詩は読もうかなという気分。
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コンビニでホットスナックを買う際の異常な心理的ハードルがなくなったのがここ数ヶ月のことで、買えるようになったことが嬉しくて必要もないのについ買ってしまう。吸わないタバコを買うよりもホットスナックは難しかった。