ケヴィン・シールズと誕生日が同じだ、ということは今年初めて知った。誰かと誕生日が同じで純粋に嬉しさを感じたのは初めてのことだ。
ケヴィン・シールズはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインのボーカルとギタリストで、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』のサントラに曲を提供していると言ったほうが通じる人もいるかもしれない。私の好きなバンドはそのほとんどが轟音かつ繊細なギターの音を特徴とするシューゲイザーと呼ばれる音楽ジャンルに大なり小なり影響を受けていて、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインはそのジャンルの始祖のような存在だ。だから気づいたときには半ば常識のようにその名前を知っていたけれど、常識を疑う機会が少ないのと同じように、正直なところあまり深く聴き込んだことがなかった。
なかったのだが、この間行ったPlastic Treeのライブの開演前に流れていた爽やかなギターロック(dipの「冷たいくらいに乾いたら」のような)が気になって、Shazamで検索するとマイブラのEP&レアトラック集に収録されている「drive it all over me」だった。このバンドは正直もっとふわふわと耽美的なイメージだったので、こんな疾走感のある曲もあるのかと驚いたし、オリジナルアルバムよりもこちらの盤から聴いていこうかなと思いはじめている。シューゲイザーの中でも輪郭のはっきりした曲が好きだ。
そう、先月が誕生日だった。仕事が忙しかったので(今も忙しい)、今年の誕生日は特段感慨なく過ぎていった。1年以内に死ねばカート・コバーンとおそろいの享年! などと冗談めかして言いながら、理由のない焦りがまったくないといえば噓になる。年齢だけ大人になって、中身は幼いままであるような気がする。少なくとも17歳の頃はこんなふうに思っていることを書き表せるだけの語彙を持っていなかった気がするので、その点は成長しているといえるのかもしれない。
書きながら、本当にそうか? と自問する。よくインターネットでは「〇〇歳まで自我がなかった」ということをいう人がいるが、そんなわけがないのである。私たちは過去のいつの時点を切り取っても、その時の自我でものを考えて判断してちゃんと生きていた。生きていたのに、未来の自分が過去の自分をなかったことにしてしまう。それはとても寂しいことだ。今の私も、書き残しておかなければ未来の私になかったことにされてしまうに違いない。
記事は非公開にしているけれど、このブログを作ったのは2014年4月6日だった。いつの間にか10年経っていた。10年前の私もそのときの語彙で考えて悩んでいた。悩みの種類だけが移り変わっていく。人の成長などというものはまやかしで、ただ瞬間ごとの状態が存在するだけなのかもしれないと思う。それでも、異なる状態を経験することで見える世界は広がっていくのだと、人の可塑性を信じたい。
子供から大人になることは無数に広がる選択肢と可能性の大半を諦めること、納得したいわけじゃ全然ないけれどまったくその通りだから嫌になる。昔のわたしがなりたかったものに今も変わらずなりたいと思ってはいるけれど、だんだん道は狭まって行く。360°全部道、なんて言ってられなくなってくる。
このブログに最初に投稿された文章。「無数に広がる選択肢と可能性」のように見えていたものは初めから錯覚だったのかもしれないよ、と今の私は思う。何もせずに与えられている選択肢などなくて、可能性は自分で発見して掴み取っていかなければならなかったんだよ。これからもそう。ところで10年前の私が「今も変わらずなりたいと思ってはいる」ものっていったい何だったんだろう。書かれなかったものの運命は儚い。
2024年に入ってからずっと漠然と調子が悪いので、突破口を探している。人格のスイッチを切り替えられるようなきっかけを。やっぱり住む場所を変えるのが一番手早いのかもしれない。そして知識が流れ込む純粋な喜びや、何かをできるようになる達成感を思い出す必要がある。
今年から社内の働く環境が変わったことが一番大きいのだけれど、問題の根幹は私の中にあるのだろうという気がしている。転職前に陥っていたのと同じ穴に嵌っている。いわゆる「日本人的な」、断言を避け、直接の対立を避け、空気を読み、察し合い、文句があっても飲み込むようなコミュニケーションスタイルが周囲の多数派であるとき、私のパフォーマンスは最悪になる。逆に、すべての情報が隠されたり遅延したりすることなく公開され流れている環境では能力発揮が最大化される。(できることならコミュニケーションスタイルの違いによって配属先を選びたいのだが、そんなことは果たして可能だろうか……。)
根本的な原因が、私が過剰に周囲に合わせすぎている(そして、合わせる先のタイプが自分に合っているときは追い風になるが、合わないときには向かい風となる)ことにあるのはわかっているので、今後は「環境に合わせない」ことを学習しなければならない。それは主に大学以降で必死に身に着けてきた「環境に合わせる能力」のアンラーニングであり、困難を極める想像がつく。どうすればそれを成し遂げられるだろう? 白紙を前にして途方に暮れている。
ケヴィンがボーカルをとる曲を聴いていると、SUPERCARって随分わかりやすくマイブラからの影響が濃いバンドだったのだなという連想発見がある。