2024年12月4日水曜日

生き物でさえなくても/間違った学習

 仕事で疲弊した人に沁みる本の紹介動画をみていたら、仕事に全身で寄りかかって一体化したつもりでいると仕事の側がある日急に他人の顔をし始めて燃え尽きるよー、みたいな話が出てきて、わかるー、結局それだよねと思った。共依存だと思っていたら一方通行でした、の関係はつらい。相手が生き物でさえなくても。他人の存在に加えて仕事という概念にもあまり期待をしないほうがいい。そうわかっていても期待をしないことの実践は難しい。何かを信じたい欲が強すぎるのかもしれない。たぶん世の中の多くの人は、信じるための他人を職場とは別の場所に取っておいてある。そうして関係を使い分けている。私も関係を増やすべきなのかもしれない。その対象は人間でなくてもいい。生き物でなくてもいい。

公開時から名前を追っていたのにずっと機会を逃していた映画『裸足で鳴らしてみせろ』を少し前に見た。主人公が犯した罪のこと、裁かれた罪と裁かれなかった罪のことが頭に残り続けている。彼がそれをする直前に、彼の父親は息子の貯金を断りなく家の事業の返済に充てたのだった。「家族だから」と言って血縁から奪うことが罪に問われないのなら、顔見知りの他人から奪うこととそれとの間にどれほどの違いがあるだろう、そう思って主人公は間違った学習をしてしまったのだと私は受け取った。間違った学習をした結果、間違ったことを実践してしまう人の痛ましい滑稽さを、他人事と思えない。目に映るものだけがすべての世界であってほしかった、いつも過去形でそう思う。

なんだかすべてを感傷の中に溶かし込んでうやむやにして生きている気がする。よくないことだと思う。