2020年7月9日木曜日

温いしあわせ

世界なんてはやく終わればいいと思っているその同じ頭で、そうはいっても未来は現在よりもよくなるだろうという漠然とした楽観を維持している。生活の裁量が大きくなればなるほど幸福度は上がる。衣食住の決定権を自分が握っていさえすれば、外側の生活がどんなにつらくともやってゆけるだろうと思う。そういうわけだから、私が今より幸福になるためにはきちんと単位を回収して卒業研究をやって今年こそは大学を出て職に就く必要がある。どんなに絶望しても身体を動かすことをやめてはいけない、と自分を叱咤する。今日より明日がよくなるとはまったくもって信じられないけれど、3年後や5年後にはきっと今の自分が苦しんでいることなどどうでもよくなっているだろう。代わりに別の考えるべきことが大量に生まれているのだとしても。

津村記久子の最高傑作は『君は永遠にそいつらより若い』だと思っているのだけれど、その後に書かれた『ミュージック・ブレス・ユー‼』もかなり救いの書になるのではと思いながら読み進めている。大学生と高校生の違いがあるほかは二冊の主人公はよく似ている。ロックやパンクが好きで、英米のバンドマンに憧れていて、自分の女の子っぽくないところや空気が読めないところを自覚しながら、変だけどなんとなく憎めないやつという位置づけで日々を過ごしている。ほとんど同じ人物の高校時代と大学時代を切り取った双子のような本だ。「変だけど憎めない」この主人公が現実に馴染もうとする努力が周囲にとってはおかしみを誘うものに映り、それが転じて愛敬となっている。彼女自身もそのことを自覚していて、内外にとって道化的存在であることを引き受けながら生きているように見える。それが読み手の私にとっては大きな救いと慰めになる。
ある種の道化として生きることを引き受けることはここ数年のうちに与えられた課題で、うまくいったかと思えるときと自意識の破壊的な力に負けてしまうときとを振り子のように往復している。おそらく人間誰もが多かれ少なかれ道化であって、自覚されている度合いは人それぞれであるにせよ、この問題が自分一人のものだと考えてしまうことは傲慢なのだろう。内なる道化と外向きの道化とを一人の人格に統合すること。私は未だに思春期の続きをやっているのだろうか。
人間は便利にできているもので、人が思春期の続きを引きずっているかどうかなどということは外から見ただけではわからない。立派な立場をもって働いている人も、仮面一枚剥がしてしまえば一体何が隠れているだろうか。なんでも隠してしまえる。いくらでも仮面を増やしていける。それもひとつの解放であると思う。
自分という人間のリアリスティックな部分は庶民性からくるものであるのかもしれない、と思う。働かなくても食べていかれる階級の人間であったならば、思い悩むことなく夢幻の世界に浸っていられただろう。文学の主流がリアリズムに移行した時期の時代的要因は、工業化と交通網の発展、活字文化によって読者層が労働者たちにまで広がっていったことだという。働かなくては日々の生活を維持できない人々の興味関心は必然的に現実世界に根ざした範囲に向けられる。基礎的な教養に欠けた読者でも理解できるように、重層的な引用は控えめに。大衆の中で幻を夢見ることを憧れてしまった群れ、大衆を軽蔑する大衆、自分の無知を呪う愚かな人間としては、一刻もはやく身の程を知って温い幸せに窒息してしまいたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿