2022年9月10日土曜日

(きらきら)(きらきらきら)

日常は確かに倦怠がいたるところに散りばめられてはいるものの、異動してからは驚くほどに仕事がたのしい。知らないことを知るのが仕事の一部であり、それでお金をもらえているのはとても幸福なことだ。すくなくとも今は。いつでも風向きはかわりうる。

展覧会もライブもひとりで行く理由は、ひとりがいちばん適しているからだ。対象と私の一対一の神聖な空間に割り込む他人は雑音にほかならない。読む本にも聴く音楽にもひとりで(他人が媒介したとしても選ぶのは自分だ)、出会うことができる。独立したシステムとして存在している。狭量で潔癖な理想としてそれはある。

プログラムは素直で可愛い。自然言語の次に好きだ。

2022年9月4日日曜日

2022/09/04

 7月10日、マームとジプシーの舞台『cocoon』を池袋の東京芸術劇場で観た。9回中7回が中止になった東京公演の中止直前の回を運よく観ることができて、座席もドセン近くの3列目という舞台の呼吸をそのまま感じることのできる場所で、思うところはありつつも色々なものがオーバーラップしてぼろぼろに泣いた。客の流した涙の量が作品の価値を決めるなどとは死んでも思わないけれど、あの鑑賞体験はしばらく忘れることができないと思う。

2013年の初演は観ていないけれど、WOWOWで放送された2015年の再演の録画が残っていたので、7月10日の後で何度か観た。
9月4日昼、彩の国さいたま芸術劇場でもう一度『cocoon』を観た。7月からさらに細かな演出のディテールが変わっていて、割り切れない部分も正直あった。

2015年よりも今年の7月、そして7月よりも9月に向かってより顕著になっていったのは、一人の女の子が見た戦争という個人的な物語から、現代において戦争をどう描くかという公共的な物語への方向性の変化だと思う。戦争というテーマが重くなっていくと同時に、女学校の守られた空間や男性への恐怖といった思春期的な要素は削られていく。7月の公演の後に2015年の映像を観なおして一番大きな変化だと思ったのは、セクシャリティの迷いにかかわるセリフや場面がなくなっていることだった。「私、女の人が好きなのかもしれない」「いつか男の人を、マユじゃない人を好きになることもあるだろうか」「私はこの先、子供を産むことだってできる」正確ではないけれどこういうサンのセリフが2015年版ではあって、2022年版にはない。

ジェンダーに関しては藤田さんと今日さんの今年8月の対談で語られていて、意識的に演出を変えているようだ。

藤田 今回『cocoon』に取り組んでいる中でやっぱり感じたのは、2015年と2022年で、ジェンダーについての社会の認識が大きく変わったということだったんです。それにまつわる差別や格差の問題は依然根深くあるから、とにかく社会の認識をもっと細かく、問題意識を持って変えていかなきゃいけないんだけど、まずは皆がこの現状を少なからず知っているし、当たりまえに話すようになりましたよね。知らない、というのはあり得ない。同時に今話しているようなことを無視して、なにか表現することはもうできないと思うんです。そこで改めて“マユ”という役と向き合って考えていくときに「実は“マユ”は男性だった」ということをテキストや演出で変に意識して描かなくても、あのコミュニティの中にいる“マユ”が持つ存在感だけで、観客には自然とそのニュアンスが伝わるんじゃないかと思ったんですよね。
今日 たしかに。もし“マユ”が女の子であったとしても、心が男の子であるって捉え方もできるし、原作を描いたときとは受け取る側の意識が変わったところはありますね。 
藤田 もう、男性性と女性性っていうふうに性別を二元的に捉えることなんてできないし、特に若い世代は性自認と性指向についての理解が普通にできていて当たりまえというか、知らないわけがないですよね。
 http://mum-cocoon.com/interview/cocoon-2022-8-2/

「もう、男性性と女性性っていうふうに性別を二元的に捉えることなんてできない」という言葉だけ取り出せばそのとおりかもしれないけれど、2022年の今だって、女子校も、異性を怖いと感じる感情や体験もまだ現実に存在する。2015年版のcocoonはそういう背景を持つニッチな客層に深く刺さるものだっただろうし、2022年版のcocoonはより広い客層に受け入れられるようになった反面で、一部の客に「これは私の物語だ」と思わせる力はきっとないだろうと思う。その一方で負傷兵はそれぞれ人格や記憶を持つようになって詳細に描かれるようになったのだけど、たぶん私はcocoonは男性側の内面を描くことを意図的に排除したままでよかったと思っているふしがあって、今年の公演に対してはそこを不満に感じているのかもしれない。マームのcocoonがサンの個人的な物語に回帰することはないんだろうな。

9月の、今日の公演はちょっとうーん?って感じで、具体的にはまず最初の日常のシーンで会話のリズムの中に時折不自然な空白が挟まるのが意図的なのかどうなのか判別できなかったところと(これがいちばん大きい)、会場の音響がよすぎて遊園地のホラー系アトラクションを想起してちょっと面白くなってしまったのと、死んでいく同級生たちがサンに向かって「私たちのことを憶えていて」と叫ぶのは(サンの想像だとしても)ちょっと安直なせりふなのではというのと、全体的に説明されすぎていて客側が想像してつなげていく余地があまり残されていないのが残念だった。もうちょっと点と点の距離が遠くてもわかるのにな。今日は座席が12列目くらいでだいぶ俯瞰的にみられる位置だったのであまり没入できなかったのもあるのかもしれないなあ。舞台ってむずかしい。

それはそうと私は2016年のマームのロミジュリを見逃したことを一生後悔している。タイムマシンがほしい。