だいたい1年周期で、家具を増やしたり捨てたり移動させたりする。言葉にできない些細な不便や違和感は毎日寝起きしていれば慣れてしまうものだが、日々すこしずつ溜まる澱のような何かに耐えられなくなる瞬間がたぶんそのくらいの周期で訪れる。部屋に残ったキャッシュが頭を濁らせている。捨てるべきものが増えすぎている。それが閾値を超えたとき、模様替えが発生する。
前回はちょうど転職を決めた時期で、在宅勤務環境が著しく悪いことにそのとき初めて気がついたのだった。それから1年経った今は、寛ぎという観点がこの部屋からまったく抜け落ちていることに初めて気がついた。働くための部屋、睡眠をとるための部屋、大量の本を収納するための部屋。部屋の在り方としてそれ以外の選択肢があろうとは思いもしなかった。思いもしなかったが、どうやら存在するようなので、インスタグラムでインテリアを検索したりしている。それは今までになかったことで、楽しいことだ。
PCゲームにデビューした。およそゲームというものに触れずに生きてきたので、DSもWiiもプレステもSwitchも所有したことがない。ゲームの中で何かを成しても現実の世界には何も残らないからやる意味がない、と小学生の私はおそらく考えて、お年玉でゲーム機を買おうかどうか悩むことすらもしなかった。しかし今考えれば、本や映画や音楽や、あるいはめったに行かない旅行に対して私がひとしく求めているのはその瞬間の体験の感触のみであって、後に何が残ろうと残るまいとそこに関心はないはずだった。ゲームもそれらと同じ類のもの、ひたすらに瞬間の体験を楽しむものだったのだ。それに気づくことができたのは、驚きであり喜びだった。
幼少期の私がゲームに興味を抱かないことを選択したのは、ゲーム機本体とは別に買って読み込ませる必要があるゲームソフトという存在をよく理解できなかったからだ、という可能性は大いにある。ハードウェアとソフトウェアという概念は7歳の私にはなかった。わからなくても面白がる感性も持っていなかった。極端に保守的な子供だった。今ではその面白さがわかるし、それらの概念を当然の前提知識とする場所で働いているのだから皮肉なことだ。私はどんどん別の人間になっている。そう信じていられる限りは希望を持てる。
些細なことに感動を見いだせるのは裏返せば視野が極端に狭いということで、視界の外側への想像力の乏しさがしばしば私を縛る。今見えている選択肢を過去にも認識できていればよかったのにと思うことはこれまでもあったし、この先もある。そういうものだと諦めて、自分にかけていた縄の結び目をひとつひとつ解いていく。
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