2024/07/20
先々々週から先々週くらいにかけて、頭痛なのか歯痛なのか区別ができないような痛みが延々と思考を圧迫していたけれど、気がつくとこの1週間はもう痛みのことを考えないようになっていて、それはつまり痛みがなくなっていたということだった。痛みというものは痛んでいるその最中にしか意識に上らない。
2024/08/12
大学生の頃、書店の岩波文庫の棚が宝の箱に見えたことを思い出す。眺める日によっていろいろの方向から、別の未知が目に飛び込んできた。そうやって買ったものの読めずに本棚に眠らせていた本を数年越しに手に取ると、活字がするするほどけて頭に入ってき、今読むべき本だったことがわかる。本が熟成する。
2024/08/18
まとまった文章を読むための心の余裕もなければ、まとまった文章を書くための余裕もない。この数日はカルロ・レーヴィ『キリストはエボリで止まった』を少しずつ読む。2019年、深夜の散歩がてら23時まで開いている本屋でなんとなく買った。たぶん冬だった。いや夏だったかも。『幸福なラザロ』を出町座で観たのは同じ年だったと思うけれど、何にせよ、アリーチェ・ロルヴァケルの映画をきっかけにイタリアに興味を惹かれるようになっていった。情熱と陽気の国というステレオタイプではない、表舞台に現れない人々の暮らしや地域格差であったり、国が歩んできた歴史への現実的な興味が。レーヴィが反ファシズム活動のために流刑となったアリアーノをGoogleマップのストリートビューで眺める。細い道を抜けて高台の途切れる展望台へ突き当り、柵に沿って回り込むと前方に細く伸びた崖の上に立ち並ぶ白っぽい建物の群が見える。半世紀以上経ってはいるが、レーヴィの書いた村はあのあたりではないか、と想像を巡らせる。投稿された写真を見ると、アリアーノにはレーヴィの胸像が建っているようだ。
仕事で、明らかに過多の業務量をこなすことを求められていて、そもそも過多であることを認識もされていないようなのでこちらの心は荒む。専任の要員が1週間かかりきりでやっと終わる作業を、他の仕事と並行して私がやることになっている。作業の質を落とすか人を増やすかの2択しかないと週明けに言わなければ。
君島大空のアルバム2枚のアナログ盤を発売日に買う。レコードを予約しにタワレコへ行くんだと言ったら、まるで昭和だねと笑われる。レコードを店頭予約したのなんて初めてのことだ。レコードで聴く意味が本当にあると思った初めての音楽だ。繊細で多彩な音や声の機微が、空間を満たして響くことを求めている、と思う。音の余白の多さがそう感じさせるのかもしれない。
この受け身の兄弟愛、このともに苦しむこと、この昔からの、あきらめきった、連帯感をまじえた忍耐心こそが、農民たちの心の奥底の共通の感情であり、宗教的ではない、自然な絆である。[…]おまえもまた運命に左右されているのだ。おまえも悪意のある力によって、邪悪な影響力によってここにいる。敵対的な魔術の作用であちこちに移動させられている。それゆえおまえもまた人間で、おれたちの仲間だ。政治であれ、法であれ、理性の幻影であれ、おまえを突き動かした動機は関係ない。道理も、原因と結果もない。ただ悪い運命が、悪を望む意志だけが存在する。それは事物の魔術的力だ。国家とはこうした運命の形態だ。それは畑の収穫物を焼いてしまう風や、血をむしばむ熱と同じだ。運命に対して、人生は忍耐と沈黙以外のものにはなれない。言葉は何の役に立つのか。そして何ができるのか。何もできはしない。
──カルロ・レーヴィ『キリストはエボリで止まった』p.109-111
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