2024年11月13日水曜日

どうやらこの世界には/接続不良/ルーフトッパーたち

 朝外に出ると空気がつめたくなっている。自分と世界の境目が際立つ季節は嬉しい(と、たまたま寒くなった日に書き始めたのだが、今週の予報はずっと20度前後で暖かい)。今年になってようやく気がついたこととして、どうやらこの世界には冬のコートのほかにも春のコートと秋のコートがある。デジタル大辞泉にはサマーコートの項もある。四季折々のコート。気に入るものを探して店を巡るうち、指先に生地の記憶がだいぶ蓄積してきて、表面に触れたときのありかなしかのジャッジが容易になっていく。

数日前から、仕事中は無線キーボードをやめてラップトップのキーボードに戻している。ノー遅延にはなったけれど打ち心地がぺらぺらで、ノンストレスとはいかない。有線のキーボードにするべきだろうか。トラックボールが劣化しているのかこのところマウスの反応も鈍い。キーボードとマウスという二大入力デバイスが思うように動かないと四肢を中途半端に縛られているのにひとしい気分を味わう。黒くてうすい二つ折りの板を前にして、その画面に映るものに対して、画面共有のその先にいる相手に対して、指先は想像以上に無力になる。必死に打ち込んでいるはずの文字の半分も画面には表れない。変換が適用されるより先に確定が適用される。ひらがなのままの文字が無様に画面を這っている。その反射神経の鈍さは私の指先のものではない、とずっと叫びたかった。それほどあきらかな接続不良に数ヶ月もの間気づかなかった、というか半ば気付きながら放置していたことがそもそも私の異常だった。でもそんな時間はもう終わる。異動のめどが立ったので! ほんとうにつらい春、夏、秋だった。来年は今年の分までいいことがあるよ。仕事で泣くのをもうやめたい。

久坂葉子作品集『幾度目かの最期』を読んだ。「落ちてゆく世界」の語りは音読したくなる滑らかさで、この甘ったるいくらいに上品な、細密に作られた箱庭を眺めているような文章は正直言ってとても好みだけれど、終わり方がすこし物足りない。表題作はどうひっくり返っても一生に一度しか書けないものに相違なく、しかし作者の死をもって完成する作品は、狭義の文学というよりもパフォーマンスを軸とする別ジャンルの芸術ではないのかと思う。摩天楼のようなとてつもなく高い建物の最上まで登り、写真や動画を撮ってSNSに投稿し、そしてときおり墜落するルーフトッパーたちのような。

2024年11月3日日曜日

近況

いろいろ話したいことはあるけれどSNSに書くほどでもないことが多い。タイピングがうまくいかなくなったのは無線接続のわずかなタイムラグが体に馴染み切っていないからかもしれないと思い始める。視覚的に感知できるような差ではないけれど、指が違和感を覚えているのかもしれない。

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み始め、初めのほうは世界の終りパートの端正な詩情に驚きと親しみを感じていたものの、上巻の半分と少しまで来た今はこの調子が下巻まで続くとしたら冗長だなと思っている。電車移動の暇つぶしに読むには丁度いいけれど部屋の中で椅子に座って読むほどではない。それでもやはりはっとするような表現はたまにある。古い夢を読むために両目にしるしをつけられるところが好きで、ページの端を折り込んでいる。村上春樹の小説のなかで語り手はいつも自分の内側の深淵に潜ることを要請され、そこで何事かを経験するけれど、そこに語り手のリズムを決定的に乱す他者はいないように見える。私は読むことによって自分を乱されたい。それは対象が小説であろうと詩歌であろうと哲学書であろうと変わらずあらゆる読書について、それを読む以前と比べて自分の中のなにかが決定的に変わってしまう可能性への期待を込めてページをめくる。それは良いことなのか悪いことなのかわからないけれど、私はそういう形でしか本を読んでこなかったと思う。

金曜日にリリースされたザ・キュアーの16年ぶりのアルバムを聴いて、好きな音が凝縮して詰まっている、と思った。私の好きな音とはPlastic Treeの音であり、ART-SCHOOLの音であり、彼らがリスペクトし取り入れていった、キュアーやその前や後に続く数多のバンドの音でもある。彼らを通じて先行者の遺伝子は私にも刻み込まれていて、だからキュアーの全アルバムを舐めるように繰り返し聴いたわけでもない私にもキュアーらしさというものが自然にわかる。彼らは本当にすごくキュアーの音楽を愛してきたんだということが今このアルバムを聴いてわかる。私も彼らを通してキュアーの音楽を愛してきたといっていいだろうか。ふだん洋楽の歌詞は気に留めないで聴いてしまうけれど、今回はちゃんと読んでみたい。

Plastic Treeの秋ツアーのファイナルが終わった。今年出たセルフタイトルのアルバムのなかで一番美しい曲は夢落ちだと今更に思う。音源を繰り返し聴いていて、たぶん有村さん自身の声でコーラスが歌い出しから終わりまでずっと聞こえていることに気がついた。まるで自分で自分に寄り添うように。アルバムの最後の曲、長いアウトロの演奏がライブの終わりの余韻を先取りした切なさのようで、実際のライブでもアンコール2回目のいちばん最後でバンドの幸福の象徴のように鳴らされていた曲で、だから聴きながら寂しくなってもおかしくないのに絶妙にそうならないのは、健康な血が巡るような演奏の温かみだけでなくコーラスのおかげでもあると思う。横浜、京都、東京と通ったこのツアー中ずっと、セットリストに欲をいえば剝製の直後に夢落ちを持ってきてほしいと願っていたけれど、それは叶わないまま終わる。横浜でも東京でも剥製の次に演奏されるのはメルヘンで、メルヘンはとても有村さんらしい曲だと思うけれど私はあまりピンときていない。

ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』と『菜食主義者』を読んだ。『すべての、白いものたちの』はああ鎮魂だなあと思うばかりで、その鎮魂の主な対象が幼くして亡くなった姉であるという一点のために私はあまりのりきれなかった気がする。一度破壊され、新しく継ぎ足されて新品のようになった人というイメージからは、すでに死んでしまった者ではなく、病みながら壊れながらどうしようもない連続性のもとで今も生きている者のほうがより滑らかに連想される。ただ、そのどうしようもなさはハン・ガンが書こうとしているもののひとつではありそうなので、私は大枠ではこの作品を好きだと言っていいのかもしれない。少しだけシモーヌ・ヴェイユを思い出す。『菜食主義者』からはもっと鮮烈な印象をうけたけれど、最終的に精神の病という枠に囲い込まれてしまうことへの窮屈さを感じた。ぜんぜん本筋とは関係ないのだけれど、三篇のうち一篇目で語り手の夫が彼の妻の胸にノーブラは似合わないと述懐するところが可笑しい。ノーブラが似合う胸と似合わない胸があるとでもいうのだろうか。数年前に自律神経の調子を崩してから締めつけの強い下着は身体の牢獄そのものだと思っているので、ヨンヘには妙な共感を覚えてしまう。そうだそのことを書こうと思っていたんだった。何か明確なきっかけがあったわけではないけれど、ある特定の行動をとらなくなって一年半ほどが経つ。その期間が長くなるにつれて心理的な抵抗も膨らんでいき、今は魂がそれを望んでいないのだろうなとぼんやり思っている。それで、こんなふうに唐突にある行動をとれなくなることがあるのだとしたら、そしてそれは実際にあるので、『菜食主義者』のヨンヘのようなことがこのさき自分に起こらないと断言することはできない。