朝外に出ると空気がつめたくなっている。自分と世界の境目が際立つ季節は嬉しい(と、たまたま寒くなった日に書き始めたのだが、今週の予報はずっと20度前後で暖かい)。今年になってようやく気がついたこととして、どうやらこの世界には冬のコートのほかにも春のコートと秋のコートがある。デジタル大辞泉にはサマーコートの項もある。四季折々のコート。気に入るものを探して店を巡るうち、指先に生地の記憶がだいぶ蓄積してきて、表面に触れたときのありかなしかのジャッジが容易になっていく。
数日前から、仕事中は無線キーボードをやめてラップトップのキーボードに戻している。ノー遅延にはなったけれど打ち心地がぺらぺらで、ノンストレスとはいかない。有線のキーボードにするべきだろうか。トラックボールが劣化しているのかこのところマウスの反応も鈍い。キーボードとマウスという二大入力デバイスが思うように動かないと四肢を中途半端に縛られているのにひとしい気分を味わう。黒くてうすい二つ折りの板を前にして、その画面に映るものに対して、画面共有のその先にいる相手に対して、指先は想像以上に無力になる。必死に打ち込んでいるはずの文字の半分も画面には表れない。変換が適用されるより先に確定が適用される。ひらがなのままの文字が無様に画面を這っている。その反射神経の鈍さは私の指先のものではない、とずっと叫びたかった。それほどあきらかな接続不良に数ヶ月もの間気づかなかった、というか半ば気付きながら放置していたことがそもそも私の異常だった。でもそんな時間はもう終わる。異動のめどが立ったので! ほんとうにつらい春、夏、秋だった。来年は今年の分までいいことがあるよ。仕事で泣くのをもうやめたい。
久坂葉子作品集『幾度目かの最期』を読んだ。「落ちてゆく世界」の語りは音読したくなる滑らかさで、この甘ったるいくらいに上品な、細密に作られた箱庭を眺めているような文章は正直言ってとても好みだけれど、終わり方がすこし物足りない。表題作はどうひっくり返っても一生に一度しか書けないものに相違なく、しかし作者の死をもって完成する作品は、狭義の文学というよりもパフォーマンスを軸とする別ジャンルの芸術ではないのかと思う。摩天楼のようなとてつもなく高い建物の最上まで登り、写真や動画を撮ってSNSに投稿し、そしてときおり墜落するルーフトッパーたちのような。
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