2023年4月19日水曜日

小説が終わった後のフラニー

うっすらひいている自覚のあった風邪が仕事を辞めた途端に悪化したので、2週間の休暇のうち前半はあまり遠出できそうにない。本を読み、ドラマや映画やアニメを観て過ごす。

ずっと積んでいた伴名練『なめらかな世界とその敵』収録作の6分の5を読んだ。世界観が必然的に高度な筆力を要請する表題作はたしかに絶望的に面白く、とても好みではあるけれど、私にとってはある枠内での傑作にとどまっている。すごく好みの二次創作小説を読んでいるときと似た感覚になる。設定がゆるぎなく魅力的である反動で、キャラクターは随意に置き換え可能であるように思われてしまう。

白水uブックスに似た細長い判型と幅の広い帯が目に留まって手に取った大崎清夏『目をあけてごらん、離陸するから』、その中の一篇「フラニー、準備を整えて」を立ち読みして半分泣きそうになってレジへ向かった。「『フラニーとズーイ』を読んで大人になった女の子」である主人公がもう一人の女の子と間接的に出会う物語で、私も彼女たちと活字越しに出会えたことを嬉しく思った。野崎訳と村上訳をどちらも持っていてどちらも読んだけれど、原文を知らないからか最後の訳出の違いに気づいたことはなかった。その他の収録作は詩と旅の随筆が多くて、本棚の須賀敦子と多和田葉子の横に並べるのが自然と似合った。旅する詩人の系譜。

だけど私が原文で好きなところはもうひとつあって。それはフラニーがレーンと一緒にレストランにいるとき何度も何度も煙草の火を付けたり灰を落としたりもみ消したりする描写なんだ。あの描写はきっと誰にも翻訳できない。フラニーは cigarette を lit して、cigarette ash を tip するの。そして、cigarette を put out するの。わかるかな、t, t, t, って音が何度も何度も重なる、ashtray にも t が入ってる、まるで自分に向かって永遠に舌打ちし続けるみたいにフラニーは煙草を吸うんだよ。(大崎清夏『目をあけてごらん、離陸するから』)

18歳のときに通っていた予備校の数学の講師が、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の話をしたことがあった。大学を出て就職してからは自分が何かをアウトプットするばかりで、インプットする暇がなかった。最近になって学生時代に読んだ本をひさしぶりに読み返したら、こんな話だったのかと思った。そんなようなことを言っていた。私はその講師の数学を教える能力については信頼していて、それ以外についてはむしろ嫌いだったのに、講義の合間の無駄話のことはよく覚えている。いつも墨汁とお香の中間のような香水をつけてモードな洋服を着て、恵比寿に住んでいることを自慢する、気取った嫌味な人だった。東大で体育会に入っていて大企業に就職して辞めて予備校で働いている。女の子の価値は女子大生の頃がピークだからね、などと悪びれず口にして、プリントアウトした秋元康の歌詞を教室で配る。そんな人でもサリンジャーは読むのだ、と思った。今思えば、そういう人だからサリンジャーを読むのかもしれなかった。

てっきりもう出ないものと思っていた『ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス』が今月になって本当に出たので、買いに行った。『イスラエルSF傑作選 シオンズ・フィクション』を引っ張り出してきて帯を見ると、『ノヴァ・ヘラス』は2021年刊行予定と書かれていた。2年遅れてもちゃんと作ってくれてありがとう。こういう本がたくさん売れて、古本市場にもそこそこ流通してくれたらいいなと思う。文庫本に1500円も出せないお金のない学生でも、せいぜい800円くらいでこの美しい装丁の異国の物語を手に取れる機会があればいいと思う。『シオンズ・フィクション』の分厚さと値段に、少し迷ってどきどきしながら会計した大学生の自分を思い出す。

金曜日が最終出社日で、この部署には10ヶ月しかいなかったのに送別会まで開いてもらってしまった。前の部署で私が配属されてからすぐに辞めた先輩は影のようにすーっといなくなって、周りもその人はただの影だったみたいに何事もなく動いていたので、会社の中の別れってそういう機械じみたものなのかと思っていた。私も影のようにいなくなるのだろうと思っていた。部署を異動したら、ちゃんと人間らしい人たちが人間のままで働いていた。そこでは人間として働いて、人間として辞めることができた。身に余る幸せだったと思う。PCを返却する前のぎりぎりの時間で、異動する前の部署の上司や先輩へ挨拶を送った。みんなすぐに前向きな応援の言葉を返してくれて、最後に一往復のやりとりをすることができた。これからの私もその人たちとともにある。転職するけれど、背水の陣ではなくて、帰れる場所がひとつ増えたのだと思う。色々なことがあったけれど、いい会社だった。こうやって終わったことを終わったそばから美しい嘘にする。

2023年4月9日日曜日

我に返る隙間

近況。

最近のTwitterの不安定ぶりを見るにつけても結局のところ書いた文章がいちばん残るのはブログなのだろう。分散型SNSのFediverseに参入してそれなりに楽しく過ごしているものの、そうまでしてインターネットで不特定多数の個人とつながらなくてはいけない理由はどこにあるのだろうと考えてしまう。本当は真っ白な壁に囲まれた何もない部屋でひとりでぼおっとしていたい。

去年の夏に新しいノートPCを買ったけれど、新しいPC(DELLのInspiron)のキーボードの打ち心地がぺらぺらしていてモチベーションが下がる上にWindows11の動作が不安定なので、結局学生時代から使っているThinkPadのほうを開きたくなる。打鍵感が気に入っているのでThinkPadの無線キーボードをそのうち買おうと思う。

 半年から1年くらいの間ずっと、グレッグ・イーガン『ディアスポラ』、中上健次『地の果て 至上の時』を交互に読む生活をしている。情緒をつかわない読書しかしていない。SFは架空の理論や世界観を理解する読書でなかば技術書を読んでいるようだし、中上健次の文章はくどいくらいに過去の出来事の振り返りを挿入してくれるので、時間が空いて記憶が薄れても困らない。秋幸はあちらの世界でちゃんと生きているので、私が半年くらい放っておいても全然平気なのである。小説で新しい物語を楽しもうとする意欲がめっきり薄れていて、そちらはもっぱら映画で摂取している。ここ1年ほどでインストールした価値観の中に、映画は小難しいものから頭を使わないアクション、ホラー、B級までひとしく娯楽として受け取るのがよいというものがあり、体に馴染ませるべく実践している。

机と椅子を一新した。 去年のGWくらいに買った椅子がとんでもなくごつい代物で、あきらかに私の体格では座り心地が悪いのに、そのときは試座したうえで全然問題ないと思って買ったのだった。この錯覚はどういうことなのだろう。とにかく毎日座面の上で立て膝もしくはあぐらという最悪の姿勢で仕事をしていてこのままでは腰や背中の負担がやばいので、もっと小振りな椅子に買い替えようと思っていた。今ようやく床に足が全面つくことのありがたみを享受している。机も高さを65cm程度に調節できるものにして、家具の配置をすこし変えた。それだけのことなのに空間を濁らせていた圧迫感が嘘のように消えた。

新年度が始まったけれど目下の仕事が暇で暇で勤務時間を持て余している。というのは私があと1週間で職を転じることになっているので仕方のないことなのだけれど、それにしても暇というのはこの世の苦痛の中で二番目に耐えがたい。一番はシーシュポスよろしく意味を見いだせない作業を終わりなく続けることで、これをやるくらいなら死んだほうがいい。

 ブログのドメインを変えようと思って断念した。高校生の自分がなんとなくつけた変なドメインをそろそろなんとかしたかったのだけれど、いざ新しい名前をつけようとしても何かしらの趣味や思想が反映された陳腐な単語しか思い浮かばなかった。ここはずっとそのまま、あの頃の私の稚拙な箱庭のまま。

春のうすぼんやりとした落ち着かなさとぬるい空気が好きではない。それでも今月は自室の居心地をすこしだけ良くすることができたので、この部屋で春が過ぎるのを待つ。

2022年9月10日土曜日

(きらきら)(きらきらきら)

日常は確かに倦怠がいたるところに散りばめられてはいるものの、異動してからは驚くほどに仕事がたのしい。知らないことを知るのが仕事の一部であり、それでお金をもらえているのはとても幸福なことだ。すくなくとも今は。いつでも風向きはかわりうる。

展覧会もライブもひとりで行く理由は、ひとりがいちばん適しているからだ。対象と私の一対一の神聖な空間に割り込む他人は雑音にほかならない。読む本にも聴く音楽にもひとりで(他人が媒介したとしても選ぶのは自分だ)、出会うことができる。独立したシステムとして存在している。狭量で潔癖な理想としてそれはある。

プログラムは素直で可愛い。自然言語の次に好きだ。

2022年9月4日日曜日

2022/09/04

 7月10日、マームとジプシーの舞台『cocoon』を池袋の東京芸術劇場で観た。9回中7回が中止になった東京公演の中止直前の回を運よく観ることができて、座席もドセン近くの3列目という舞台の呼吸をそのまま感じることのできる場所で、思うところはありつつも色々なものがオーバーラップしてぼろぼろに泣いた。客の流した涙の量が作品の価値を決めるなどとは死んでも思わないけれど、あの鑑賞体験はしばらく忘れることができないと思う。

2013年の初演は観ていないけれど、WOWOWで放送された2015年の再演の録画が残っていたので、7月10日の後で何度か観た。
9月4日昼、彩の国さいたま芸術劇場でもう一度『cocoon』を観た。7月からさらに細かな演出のディテールが変わっていて、割り切れない部分も正直あった。

2015年よりも今年の7月、そして7月よりも9月に向かってより顕著になっていったのは、一人の女の子が見た戦争という個人的な物語から、現代において戦争をどう描くかという公共的な物語への方向性の変化だと思う。戦争というテーマが重くなっていくと同時に、女学校の守られた空間や男性への恐怖といった思春期的な要素は削られていく。7月の公演の後に2015年の映像を観なおして一番大きな変化だと思ったのは、セクシャリティの迷いにかかわるセリフや場面がなくなっていることだった。「私、女の人が好きなのかもしれない」「いつか男の人を、マユじゃない人を好きになることもあるだろうか」「私はこの先、子供を産むことだってできる」正確ではないけれどこういうサンのセリフが2015年版ではあって、2022年版にはない。

ジェンダーに関しては藤田さんと今日さんの今年8月の対談で語られていて、意識的に演出を変えているようだ。

藤田 今回『cocoon』に取り組んでいる中でやっぱり感じたのは、2015年と2022年で、ジェンダーについての社会の認識が大きく変わったということだったんです。それにまつわる差別や格差の問題は依然根深くあるから、とにかく社会の認識をもっと細かく、問題意識を持って変えていかなきゃいけないんだけど、まずは皆がこの現状を少なからず知っているし、当たりまえに話すようになりましたよね。知らない、というのはあり得ない。同時に今話しているようなことを無視して、なにか表現することはもうできないと思うんです。そこで改めて“マユ”という役と向き合って考えていくときに「実は“マユ”は男性だった」ということをテキストや演出で変に意識して描かなくても、あのコミュニティの中にいる“マユ”が持つ存在感だけで、観客には自然とそのニュアンスが伝わるんじゃないかと思ったんですよね。
今日 たしかに。もし“マユ”が女の子であったとしても、心が男の子であるって捉え方もできるし、原作を描いたときとは受け取る側の意識が変わったところはありますね。 
藤田 もう、男性性と女性性っていうふうに性別を二元的に捉えることなんてできないし、特に若い世代は性自認と性指向についての理解が普通にできていて当たりまえというか、知らないわけがないですよね。
 http://mum-cocoon.com/interview/cocoon-2022-8-2/

「もう、男性性と女性性っていうふうに性別を二元的に捉えることなんてできない」という言葉だけ取り出せばそのとおりかもしれないけれど、2022年の今だって、女子校も、異性を怖いと感じる感情や体験もまだ現実に存在する。2015年版のcocoonはそういう背景を持つニッチな客層に深く刺さるものだっただろうし、2022年版のcocoonはより広い客層に受け入れられるようになった反面で、一部の客に「これは私の物語だ」と思わせる力はきっとないだろうと思う。その一方で負傷兵はそれぞれ人格や記憶を持つようになって詳細に描かれるようになったのだけど、たぶん私はcocoonは男性側の内面を描くことを意図的に排除したままでよかったと思っているふしがあって、今年の公演に対してはそこを不満に感じているのかもしれない。マームのcocoonがサンの個人的な物語に回帰することはないんだろうな。

9月の、今日の公演はちょっとうーん?って感じで、具体的にはまず最初の日常のシーンで会話のリズムの中に時折不自然な空白が挟まるのが意図的なのかどうなのか判別できなかったところと(これがいちばん大きい)、会場の音響がよすぎて遊園地のホラー系アトラクションを想起してちょっと面白くなってしまったのと、死んでいく同級生たちがサンに向かって「私たちのことを憶えていて」と叫ぶのは(サンの想像だとしても)ちょっと安直なせりふなのではというのと、全体的に説明されすぎていて客側が想像してつなげていく余地があまり残されていないのが残念だった。もうちょっと点と点の距離が遠くてもわかるのにな。今日は座席が12列目くらいでだいぶ俯瞰的にみられる位置だったのであまり没入できなかったのもあるのかもしれないなあ。舞台ってむずかしい。

それはそうと私は2016年のマームのロミジュリを見逃したことを一生後悔している。タイムマシンがほしい。

2021年4月4日日曜日

花に嵐

長い間絵筆を持たずに過ごしていると描き始めの筆の置き所がよくわからなくなる。線の始まりがどこであっても間違っているような気分になる。記憶と勘をたどっても正解はない。その都度目の前の白紙のうえに作り出していくしかない。ということとは別の問題として、私は文体模倣がとても好きだ。別に今更オリジナリティへの執着も持ち合わせていないし、いくら巧妙に真似をしてもどこかしらに必ず脱線と綻びが生まれるはずだから、絡み合う他者の存在の交点としての自分を、何の抵抗もなく肯定することができる。

生活の環境が意外にも居心地の良いものとして感じられているのは、下宿から運び込まれた自室の本棚とベッド、そして机によるところが大きい。段ボールに換算して4,5箱分にはなっただろう本の山を見た家族が「要塞のようだ」といみじくも口にしたように、大量の本は心の防壁の役割を果たしてくれる。ベッドは精神的なシェルターになってくれる。机は学ぶことを正当化してくれる。私は幾重にも守られている。雨風をしのげる場所があるということは本当にありがたい。

東京に自分の人生はないと思っていた。東京のことをろくに知らなかったのだから当然だった。私は東京のどこに品揃えのいい本屋があるのかも知らないし、使い勝手のいい喫茶店も知らない。これから私に歩かれるべき未踏の道は大通りから路地に至るまで膨大に残されていて、その限りにおいて私は東京で生きていけるような気がしてくる。

社会人になってしまったので、本を読むことにする。大学までの自分とつながりを保つ手段として、仕事とは別の側面で自分を支える一貫した基盤のひとつとして。ろくに勉強をしない学生だったから、むしろこれからが長い旅になるのかもしれない。目の前に現れる色々な矢印になるべく抗っていこうと思う。表面上社会に適応しながら同時に適応しない自分を保ち続けたい。適応と不適応の境界を攻めることがどこまで可能なのかを試してみたい。そんなことを言っていられるのも今のうちだけかもしれないけれど、力尽きたときはそのときで笑いとばしてほしい。