2024年12月4日水曜日

生き物でさえなくても/間違った学習

 仕事で疲弊した人に沁みる本の紹介動画をみていたら、仕事に全身で寄りかかって一体化したつもりでいると仕事の側がある日急に他人の顔をし始めて燃え尽きるよー、みたいな話が出てきて、わかるー、結局それだよねと思った。共依存だと思っていたら一方通行でした、の関係はつらい。相手が生き物でさえなくても。他人の存在に加えて仕事という概念にもあまり期待をしないほうがいい。そうわかっていても期待をしないことの実践は難しい。何かを信じたい欲が強すぎるのかもしれない。たぶん世の中の多くの人は、信じるための他人を職場とは別の場所に取っておいてある。そうして関係を使い分けている。私も関係を増やすべきなのかもしれない。その対象は人間でなくてもいい。生き物でなくてもいい。

公開時から名前を追っていたのにずっと機会を逃していた映画『裸足で鳴らしてみせろ』を少し前に見た。主人公が犯した罪のこと、裁かれた罪と裁かれなかった罪のことが頭に残り続けている。彼がそれをする直前に、彼の父親は息子の貯金を断りなく家の事業の返済に充てたのだった。「家族だから」と言って血縁から奪うことが罪に問われないのなら、顔見知りの他人から奪うこととそれとの間にどれほどの違いがあるだろう、そう思って主人公は間違った学習をしてしまったのだと私は受け取った。間違った学習をした結果、間違ったことを実践してしまう人の痛ましい滑稽さを、他人事と思えない。目に映るものだけがすべての世界であってほしかった、いつも過去形でそう思う。

なんだかすべてを感傷の中に溶かし込んでうやむやにして生きている気がする。よくないことだと思う。

2024年11月13日水曜日

どうやらこの世界には/接続不良/ルーフトッパーたち

 朝外に出ると空気がつめたくなっている。自分と世界の境目が際立つ季節は嬉しい(と、たまたま寒くなった日に書き始めたのだが、今週の予報はずっと20度前後で暖かい)。今年になってようやく気がついたこととして、どうやらこの世界には冬のコートのほかにも春のコートと秋のコートがある。デジタル大辞泉にはサマーコートの項もある。四季折々のコート。気に入るものを探して店を巡るうち、指先に生地の記憶がだいぶ蓄積してきて、表面に触れたときのありかなしかのジャッジが容易になっていく。

数日前から、仕事中は無線キーボードをやめてラップトップのキーボードに戻している。ノー遅延にはなったけれど打ち心地がぺらぺらで、ノンストレスとはいかない。有線のキーボードにするべきだろうか。トラックボールが劣化しているのかこのところマウスの反応も鈍い。キーボードとマウスという二大入力デバイスが思うように動かないと四肢を中途半端に縛られているのにひとしい気分を味わう。黒くてうすい二つ折りの板を前にして、その画面に映るものに対して、画面共有のその先にいる相手に対して、指先は想像以上に無力になる。必死に打ち込んでいるはずの文字の半分も画面には表れない。変換が適用されるより先に確定が適用される。ひらがなのままの文字が無様に画面を這っている。その反射神経の鈍さは私の指先のものではない、とずっと叫びたかった。それほどあきらかな接続不良に数ヶ月もの間気づかなかった、というか半ば気付きながら放置していたことがそもそも私の異常だった。でもそんな時間はもう終わる。異動のめどが立ったので! ほんとうにつらい春、夏、秋だった。来年は今年の分までいいことがあるよ。仕事で泣くのをもうやめたい。

久坂葉子作品集『幾度目かの最期』を読んだ。「落ちてゆく世界」の語りは音読したくなる滑らかさで、この甘ったるいくらいに上品な、細密に作られた箱庭を眺めているような文章は正直言ってとても好みだけれど、終わり方がすこし物足りない。表題作はどうひっくり返っても一生に一度しか書けないものに相違なく、しかし作者の死をもって完成する作品は、狭義の文学というよりもパフォーマンスを軸とする別ジャンルの芸術ではないのかと思う。摩天楼のようなとてつもなく高い建物の最上まで登り、写真や動画を撮ってSNSに投稿し、そしてときおり墜落するルーフトッパーたちのような。

2024年11月3日日曜日

近況

いろいろ話したいことはあるけれどSNSに書くほどでもないことが多い。タイピングがうまくいかなくなったのは無線接続のわずかなタイムラグが体に馴染み切っていないからかもしれないと思い始める。視覚的に感知できるような差ではないけれど、指が違和感を覚えているのかもしれない。

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み始め、初めのほうは世界の終りパートの端正な詩情に驚きと親しみを感じていたものの、上巻の半分と少しまで来た今はこの調子が下巻まで続くとしたら冗長だなと思っている。電車移動の暇つぶしに読むには丁度いいけれど部屋の中で椅子に座って読むほどではない。それでもやはりはっとするような表現はたまにある。古い夢を読むために両目にしるしをつけられるところが好きで、ページの端を折り込んでいる。村上春樹の小説のなかで語り手はいつも自分の内側の深淵に潜ることを要請され、そこで何事かを経験するけれど、そこに語り手のリズムを決定的に乱す他者はいないように見える。私は読むことによって自分を乱されたい。それは対象が小説であろうと詩歌であろうと哲学書であろうと変わらずあらゆる読書について、それを読む以前と比べて自分の中のなにかが決定的に変わってしまう可能性への期待を込めてページをめくる。それは良いことなのか悪いことなのかわからないけれど、私はそういう形でしか本を読んでこなかったと思う。

金曜日にリリースされたザ・キュアーの16年ぶりのアルバムを聴いて、好きな音が凝縮して詰まっている、と思った。私の好きな音とはPlastic Treeの音であり、ART-SCHOOLの音であり、彼らがリスペクトし取り入れていった、キュアーやその前や後に続く数多のバンドの音でもある。彼らを通じて先行者の遺伝子は私にも刻み込まれていて、だからキュアーの全アルバムを舐めるように繰り返し聴いたわけでもない私にもキュアーらしさというものが自然にわかる。彼らは本当にすごくキュアーの音楽を愛してきたんだということが今このアルバムを聴いてわかる。私も彼らを通してキュアーの音楽を愛してきたといっていいだろうか。ふだん洋楽の歌詞は気に留めないで聴いてしまうけれど、今回はちゃんと読んでみたい。

Plastic Treeの秋ツアーのファイナルが終わった。今年出たセルフタイトルのアルバムのなかで一番美しい曲は夢落ちだと今更に思う。音源を繰り返し聴いていて、たぶん有村さん自身の声でコーラスが歌い出しから終わりまでずっと聞こえていることに気がついた。まるで自分で自分に寄り添うように。アルバムの最後の曲、長いアウトロの演奏がライブの終わりの余韻を先取りした切なさのようで、実際のライブでもアンコール2回目のいちばん最後でバンドの幸福の象徴のように鳴らされていた曲で、だから聴きながら寂しくなってもおかしくないのに絶妙にそうならないのは、健康な血が巡るような演奏の温かみだけでなくコーラスのおかげでもあると思う。横浜、京都、東京と通ったこのツアー中ずっと、セットリストに欲をいえば剝製の直後に夢落ちを持ってきてほしいと願っていたけれど、それは叶わないまま終わる。横浜でも東京でも剥製の次に演奏されるのはメルヘンで、メルヘンはとても有村さんらしい曲だと思うけれど私はあまりピンときていない。

ハン・ガンの『すべての、白いものたちの』と『菜食主義者』を読んだ。『すべての、白いものたちの』はああ鎮魂だなあと思うばかりで、その鎮魂の主な対象が幼くして亡くなった姉であるという一点のために私はあまりのりきれなかった気がする。一度破壊され、新しく継ぎ足されて新品のようになった人というイメージからは、すでに死んでしまった者ではなく、病みながら壊れながらどうしようもない連続性のもとで今も生きている者のほうがより滑らかに連想される。ただ、そのどうしようもなさはハン・ガンが書こうとしているもののひとつではありそうなので、私は大枠ではこの作品を好きだと言っていいのかもしれない。少しだけシモーヌ・ヴェイユを思い出す。『菜食主義者』からはもっと鮮烈な印象をうけたけれど、最終的に精神の病という枠に囲い込まれてしまうことへの窮屈さを感じた。ぜんぜん本筋とは関係ないのだけれど、三篇のうち一篇目で語り手の夫が彼の妻の胸にノーブラは似合わないと述懐するところが可笑しい。ノーブラが似合う胸と似合わない胸があるとでもいうのだろうか。数年前に自律神経の調子を崩してから締めつけの強い下着は身体の牢獄そのものだと思っているので、ヨンヘには妙な共感を覚えてしまう。そうだそのことを書こうと思っていたんだった。何か明確なきっかけがあったわけではないけれど、ある特定の行動をとらなくなって一年半ほどが経つ。その期間が長くなるにつれて心理的な抵抗も膨らんでいき、今は魂がそれを望んでいないのだろうなとぼんやり思っている。それで、こんなふうに唐突にある行動をとれなくなることがあるのだとしたら、そしてそれは実際にあるので、『菜食主義者』のヨンヘのようなことがこのさき自分に起こらないと断言することはできない。

2024年10月22日火曜日

近況

 2ヶ月ほど頭がおかしくなっていた。今週に入ってやっと人間に戻れたような気分でいる。タイピングがとてもへたになってしまった。キーボードを変えたせいだと思っていたけれど、変な力の入り方が数ヶ月経っても直らない。9月末、DIC川村記念美術館へ行った。東京駅から快速で1時間、そこから送迎バスで20分かけて行く。企画展がとても好みだった。アクリル板の色を重ねて作られた新しい色、両側の壁面がほとんど窓である展示室で光を透過する、ひとかかえもあるガラスのホオズキ、グレーの一色で描かれているのに水辺の青や木々の緑が浮かび上がるようにわかる絵。この絵を直接見たとき吸い込まれるように感じた昏い生気が図録の写真からはまったく抜け落ちていて、写真に撮られると魂を抜かれるとはある意味で(撮られた写真の側からみれば)本当かもしれないと落胆した。ラビリンス断片、と題された展示は四角い部屋を低い白壁で9つの正方形に区切った一筆書きのような順路で、各々の正方形のなか、あるいは周囲の壁の上に作品が置かれている。一周してから目録を見たとき、何番目の作品がどの正方形のどちら側にあったかをあらかた正確に思い出すことができたのは、四角い順路が空間記憶術のような役割を果たしていたのかもしれないと思う。どの正方形の、どの壁の、どちら側から、どの作品を視界の中心に据えるかによって、移動する視点にしたがって他の作品がいつも違った方角に映り込む。こういう鑑賞体験は初めてだった。広くはない館内を行ったり来たりして、ロスコルームも2回訪れた。燃えているビロードの扉に囲まれたようだった。マーク・ロスコについて何も知らないけれど、ミュージアムショップで売られていたロスコの大判カレンダーを買って部屋に飾るような人間はこの絵の意志に反しているのではないかとぼんやり考える。帰りのバス待ちで隣に座ったハイソな雰囲気の中年婦人がカレンダーを手にしていて、同じことを再び思う。10月、Plastic Treeのライブを京都で観るついでに芦屋に一泊することにした。山と海に挟まれた南北に細長い街。せっかくなので芦屋市立美術博物館へ行き、60年代から活動する前衛美術家の企画展と、博物館エリアで阪神淡路大震災当時の写真を見る。京都へ移動し、学生時代にも乗ったことがなかった叡山電車に乗る。ライブは気を失いそうに楽しくて、2週間たった今、ほとんど思い出せることがない。スピカを歌う有村さんの声が胸に迫って、この人の歌から逃れられないと思った。何度聴いてもあざやかな胸の痛み。最近は読書会に参加させてもらい、本について人と話すことが増えた。人と共有できる本と、共有できない本のことを思う。結局のところ本と私の二人きりの会話であるような読書にいちばん馴染みがある。ときどき思い出したように本を介して人と交流を持つのは楽しい。棲み慣れた山から下りてきたばかりの獣の気持ちがする。慚愧が仏教語であることを知る。おかえり、正常な私。正常であると私が信じている私。

2024年8月18日日曜日

諦観中枢、あるいは近況

2024/07/20

先々々週から先々週くらいにかけて、頭痛なのか歯痛なのか区別ができないような痛みが延々と思考を圧迫していたけれど、気がつくとこの1週間はもう痛みのことを考えないようになっていて、それはつまり痛みがなくなっていたということだった。痛みというものは痛んでいるその最中にしか意識に上らない。

2024/08/12

大学生の頃、書店の岩波文庫の棚が宝の箱に見えたことを思い出す。眺める日によっていろいろの方向から、別の未知が目に飛び込んできた。そうやって買ったものの読めずに本棚に眠らせていた本を数年越しに手に取ると、活字がするするほどけて頭に入ってき、今読むべき本だったことがわかる。本が熟成する。

2024/08/18

まとまった文章を読むための心の余裕もなければ、まとまった文章を書くための余裕もない。この数日はカルロ・レーヴィ『キリストはエボリで止まった』を少しずつ読む。2019年、深夜の散歩がてら23時まで開いている本屋でなんとなく買った。たぶん冬だった。いや夏だったかも。『幸福なラザロ』を出町座で観たのは同じ年だったと思うけれど、何にせよ、アリーチェ・ロルヴァケルの映画をきっかけにイタリアに興味を惹かれるようになっていった。情熱と陽気の国というステレオタイプではない、表舞台に現れない人々の暮らしや地域格差であったり、国が歩んできた歴史への現実的な興味が。レーヴィが反ファシズム活動のために流刑となったアリアーノをGoogleマップのストリートビューで眺める。細い道を抜けて高台の途切れる展望台へ突き当り、柵に沿って回り込むと前方に細く伸びた崖の上に立ち並ぶ白っぽい建物の群が見える。半世紀以上経ってはいるが、レーヴィの書いた村はあのあたりではないか、と想像を巡らせる。投稿された写真を見ると、アリアーノにはレーヴィの胸像が建っているようだ。

仕事で、明らかに過多の業務量をこなすことを求められていて、そもそも過多であることを認識もされていないようなのでこちらの心は荒む。専任の要員が1週間かかりきりでやっと終わる作業を、他の仕事と並行して私がやることになっている。作業の質を落とすか人を増やすかの2択しかないと週明けに言わなければ。

君島大空のアルバム2枚のアナログ盤を発売日に買う。レコードを予約しにタワレコへ行くんだと言ったら、まるで昭和だねと笑われる。レコードを店頭予約したのなんて初めてのことだ。レコードで聴く意味が本当にあると思った初めての音楽だ。繊細で多彩な音や声の機微が、空間を満たして響くことを求めている、と思う。音の余白の多さがそう感じさせるのかもしれない。

この受け身の兄弟愛、このともに苦しむこと、この昔からの、あきらめきった、連帯感をまじえた忍耐心こそが、農民たちの心の奥底の共通の感情であり、宗教的ではない、自然な絆である。[…]おまえもまた運命に左右されているのだ。おまえも悪意のある力によって、邪悪な影響力によってここにいる。敵対的な魔術の作用であちこちに移動させられている。それゆえおまえもまた人間で、おれたちの仲間だ。政治であれ、法であれ、理性の幻影であれ、おまえを突き動かした動機は関係ない。道理も、原因と結果もない。ただ悪い運命が、悪を望む意志だけが存在する。それは事物の魔術的力だ。国家とはこうした運命の形態だ。それは畑の収穫物を焼いてしまう風や、血をむしばむ熱と同じだ。運命に対して、人生は忍耐と沈黙以外のものにはなれない。言葉は何の役に立つのか。そして何ができるのか。何もできはしない。
──カルロ・レーヴィ『キリストはエボリで止まった』p.109-111