2020年2月1日土曜日

2月1日(土)

 浴室に本を持ち込むのが好きだ。換気扇を回しているとはいえ、シャワーを浴びているあいだに満ちてくる湿気が次第にページを波打たせ、横から見える本の断面はやわらかく膨らんでゆくのだけれど、乾燥した部屋へ戻せばすぐにあらかた元どおりになるから不安になることはない。
 一人暮らしの部屋の狭いバスタブに定期的に湯をためるようになったのは実のところ四年目も終わりに近づいた今年に入って以来、というのも入居したときから排水管の調子が悪く一度に大量の水を流すことができなかったからだ。修理や清掃を頼みたいと思いながらも日々の些事に追われるうちに先延ばしになり、べつに湯に浸からなくては死ぬ病気でもあるまいしと妥協する気持ちになっていたのだけれど、ここ数年でひときわ落ち込んだ精神状態のもと冬に突入してみて初めて気がついた。湯に浸からなくては、死ぬわ、私。湯舟なしではこの冬を生き延びることは到底かなわない。浴槽の栓の開きぐあいを手動で調節してやれば流れの悪い排水管もなんとか耐えてくれるのでは、と願いながら試してやると果たしてうまくいった。こんなことならはじめからそうしてやればよかったと今更悔やんでもしかたがない。
 そんなわけで先月(今日はもう二月!)からは週に二日の頻度で読みかけの本をタオルにくるみ、身体を洗うあいだは横でおとなしく待たせておいて、浴槽に半分まで給水したところへ冷えた手足を沈めてクナイプのバスソルトを投入、疲れた機械の軋みのようなため息が出つくしたところでやっと本を手に取る。このところずっと読んでいるのはオルガ・トカルチュクの『逃亡派』なのだけれど、断章形式の物語はただでさえ集中力を要するうえに、訳文の日本語がとても私好みで頭の中で音読したいような一文がそこかしこにある。石の彫りあとを指先でなぞるようにして文字を追っていくと一日に三〇ページも進めばいいほうで、しかも私の中でこの本は入浴タイムと結びついてしまっているので週に二日のペースでのろのろと読み進めることになる。そんな読み方もまた楽しくて良いか、と思うけれど春が来るまでに読み終えることができるかすら心許ない。
 『逃亡派』に書かれていることは不思議とはじめから私の内面にしっくり馴染むものが多くて、その理由にはおそらく著者と私の大学での専攻が同じであることも少しは関連しているに違いない。自分の専門分野に馴染みきることができなかった点にも勝手に共感している。以前から好きだったいろいろなもの、蒐集された音楽や詩やイメージの断片が、この本を読んでいく中で相互に紐づけられてゆくように感じられる。自分にとっての結節点のようなものに出会えるのは嬉しいことだ。
 いくつか気に入った部分を引用しておく。
わたしが患っているのは、あらゆるだめなもの、不完全なもの、欠陥のあるもの、こわれたものに惹かれてしまう症候群だ。わたしが興味をもつのはなんであれ、創造物のなかの過失、袋小路。なんらかの理由で展開しきらなかったもの、あるいはまったく反対に、やりすぎてしまったもの。規則からはずれている、ちいさすぎたり大きすぎたりする、熟れすぎている、あるいは未熟な、気味が悪くて胸がむかつく、そういうものすべて。対称ではない形、増殖する、わきから枝葉が生えている形、または反対に、複数から単数に減る形。統計学が好むような、くりかえしの出来事には興味がない。家族のみなが満足げにほほえみを浮かべて祝う行事には。わたしの感受性は奇形学的で、怪奇好き。まさにここに本当のわたしがいる、わたしの本質があらわれているという確信がつきまとって離れない。(p.18)
 わたしに痛みをもたらすものを、わたしは地図上で白くぬりつぶす。つまづいたり、ころんだり、攻撃されたり、痛いところをつかれたり、そこでなにかの具合が悪くなったり、そういう経験をした場所は、わたしの地図から姿を消す。/この方法で、いくつかの街と、ひとつの村をぬりつぶした。もしかしたらいつの日か、国をまるごと消すかもしれない。地図はこれを寛大な心でわかってくれる。なぜなら地図は余白が恋しいから。それは彼らの幸福な子ども時代。(p.97)

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