2020年2月8日土曜日

2020/02/08

‪ 二階堂奥歯の『八本脚の蝶』を買った。文庫化の話題がツイッターを流れるまで私は同タイトルのブログの存在も著者の名前もほぼまったく知らなかったのだけれど、この本をきっかけにして、ここ数年のあいだずっと抱えてきた疑問が思考の表面に浮上してきた。思っていることをとりあえず文字にしてみようと思う。(『八本脚の蝶』自体はまだ読めていないのでこの本の内容に対する考えではない。)‬
『八本脚の蝶』の著者略歴を眺める。「自らの意志でこの世を去る」という書き方は自死を美化しすぎているのではないかと感じる。具体的な数字は忘れてしまったけれど、死を選ぶ人の大半は鬱病その他の精神疾患を経由している(もしかしたら厚労省の自殺統計に出ているかもしれない)。精神的に正常な状態で、あくまで理性的に意志を行使して死を選ぶ人はそれほど多くはいないはずだ。病的な不安や絶望によって死んだ人たちは、「自らの意志で選んだ」というよりは「病によって選ばされた」というほうが近いのではないか。それとも、病気と健康の線引きそのものを疑う立場からすれば、どんな状態であれ外側から見て自発的と受け取られるものはすべてその人の意志と呼ぶべきなのだろうか。著者が辿った経緯の片鱗は、日記を読み進めていけばわかるのだろうか。‬
この違和感を抱くのは今回に限ったことではない。あらゆる小説や詩歌についていえることだけれど、本人の自殺や夭折によって見出される芸術的価値や説得力というものをどこまで信用していいのか、私にはわからない。もし悲劇的な形で死ななければ、もはや惹句としての価値のない年齢までだらだらと生き続けてしまったならば、この人たちが見出されることはなかったのだろうか。もしそうであるならば、注目を集めたければなるべく珍しいやり方で死んだもの勝ちになってしまうではないか。それは受け入れがたいことだ。‬
もちろん誰もが死によって有名になるわけではないし、彼らが死後の扱われかたを想定して死んでいったとは毛頭思わない。その人たちは確かに才能のある稀有な人物で、生き続けていたとしてもおそらく大成したのだろうし、不運にもその中途で亡くなったあとで注目されただけなのだろう。とはいっても、本の帯に踊るセンセーショナルな文字はノイズのように作品自体を見る目を歪ませ、私を戸惑わせる。率直に言って、著者の死を宣伝文句に使わないでほしいとすら思う。‬
なぜ私がこんなにもしつこくこの問題にこだわるのかといえば、消極的選択として人生を継続している人間のひとりとして、死に対して生より大きな価値を与えたくないという個人的な思いがあるからだ。何もかも止めてしまいたくなる瞬間がいくつあってもなお、生き続けることの方に肯定的な意味を見出したいと切望しているからだ。完遂できた人は勇気があると思いこそすれ、私は自殺を肯定も否定もしない。死者に同情も共感もしない。死に付随するのは砂漠の砂の一粒が消えるのと同等の意味だけだ。自死した作家たちには、生きていてほしかった、とだけ思う。当人の苦しみを知らない赤の他人のエゴであることは承知の上で。‬
たとえば何らかの点で同等に稀有な人物(同等に稀有というのが実際にありうることかはわからないが)が複数人いたとして、ひとりが夭折や自死の結果として耳目を集め、残りの者は平凡に生き延びたとしよう。実際に私が知ることができたのは前者だけだったとしても、想像的には、私は後者に対してより共感するだろう。いくら死者が身軽で美しく、生存者が地を這うように醜いとしても、死んでしまったら終わりだ。無理にでもそう信じることをやめてしまったら、自分をここに引き留めている綱がすり切れていくような気がする。‬

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