生きることは日々を生活することだ、という主張に、薄々説得されかけながらも認めたくない自分がいる。何かを成し遂げ、遂げられずとも痕跡を残すことが人生だと、小さい頃からかたくなに信じてきたからだ。
成長の中で、ある時期に至るまでは、人の可能性というものは広がっていくものだと思う。おそらく中学生くらいまでは。高校生から先は、広がった選択肢を徐々に絞り込んでいく時期だ。と、一般的には考えられている。
私はそれに気がつかないふりをしていた。いつまでも「いつか」を夢見ていられると漠然と思っていた。
だけどもう、目を逸らせなくなってきている。このところ「生活を主体的に送る」ためのライフハックに目が行きがちなのは多分そのせいだ。
丁寧に生活をする。家具や衣類の手入れをする。ラムレーズンなんかを自分で漬けてみる。DIYで台所の壁にタイルを貼る。洋服を自分で縫う。
どれも素敵だ。他人がやっているのを見ると尚更素敵に見える。だけど、「上質な生活」の象徴のようなそれらの手のかかる作業を丁寧に丁寧に遂行するためには、時間とお金の余裕が要る。一方で、何かしらの分野で爪痕を残すには、仕事や限られた趣味だけに時間とお金をつぎ込むことが必要だ。
この二つは両立不可能だ。
というより、「丁寧な生活」のあれやこれやは総合して一つの趣味と言えるのだろう。他に打ち込むもののない人たちが最終的にたどりつく趣味。
それでも、いくら丁寧に上質な日々の暮らしを維持したところで、死んでしまったらなにも残らない。残さず食べられるために手間をかけて作られる料理。創造する端から消費していくゲーム。そんなのって虚しくないか。でもそれが人生だという人のなんと多いことか。
ここにも選択の時間制限が迫ってきている。まず生活を整えなければ、と言っていると他の事をする余裕がなくなる。なにかひとつに打ち込めば、生活がこわれる。なにごともほどほどに、というのがとてもむずかしい。生活を整えろ、と言われても、最低限生きていられればいいのよ、と言われても、それぞれの極端を攻めなければならないような気がしてしまう。
気がつけば大学も2年めになる。怖い。恐ろしい。中学の卒業式の帰りに浮き足立って桜の写真を撮りながら歩いたのは昨日の事のようなのに。このブログを最初につくったのも確かその日だったか。記事はだいぶ消してしまったけれど。人生、って、何なんだよ。どこかで立ち止まるための猶予を下さい。
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