この一ヶ月で呆れるくらい本を買った。軽く見積もって10冊は下らない。
半分強はすぐに読んで、半分弱はまだ積んである。意識を自分の内面から逸らす手段として読書は最適だ。哲学の入門書、軽いエッセイ、日本近代文学、準古典的な翻訳小説、漫画、大体そんなところか。ようするに、現実逃避がしたいのだ。
最近話した人が、自分の過去を現在につながるものとして思い出したことがない、と言っていた。断片的に思い出せることも靄がかかったようではっきりしないらしい。
驚いた。私はまったく逆だった。その時感じていたことを忘れてしまうのが怖くて、肌理をなぞるように隅々まで思い出そうとする。その過程で、ひとつひとつを美しいエピソードの形に成型して磨き上げていく。傷ついた経験も飴細工の傷口に変わる。そのような想起に堪えないほど嫌な記憶は、おそらくそれ自体としてなかったことにしてしまっている。厳選された記憶だけを、昔買ったレコードを繰り返し聴くように、箱にしまった光る石を時々取り出して眺めるように、曇った鏡を磨いて自分の顔の細部を確認するように、いとおしむ。過去をむやみに大事にしようとするのは、昔から変わらない私の性質のひとつ。
別の人は、数か月前までの記憶なら想起に堪えうるけれど、昔になればなるほど当時の自分が許せなくなる、と言っていた。これも私は真逆だ。昔のことになればなるほど、恥や悔恨の念は薄れていって、角の取れた甘やかな物語になる。喉元過ぎれば熱さを忘れる、というやつで、なるほど私の過去からの学習能力は相当低い。
過去が遠ざかるほど自分も他人も許せるようになるのは、徐々に細部を忘れていっているからだという気がする。例えば文章となると勝手が違う。自分の書いた文章を読み返すたびに修正を加えたくて仕方がなくなるのは、文章は書いたときのまま残り続けているからだ。読み返すたびに書いたときの自分の状態が蘇ってくるからだ。まさにそのために、つまり書いたときの自分の状態を再体験可能な形に固定しておくことを目的として、私はブログやらTwitterやら日記めいたものを書くのだが、まさにそのせいで、つまり書いたときの自分の状態が固定された結果として過去を許すことができなくなるからこそ、日記が続かないのだ。難しい。
繰り返し聴いたレコードがいつか擦り切れてしまうことが怖い。しまっておいた綺麗な石が磨きすぎてなくなってしまうことが怖い。近頃の私は、過ぎ去っていくそばから記憶と感情を結晶化させて標本にすることに異常な力を注いでいた。標本はまだ生々しさが残っていて不完全だけれど、時を経て、半年か一年、二年も過ぎたらきっと完璧になる。時間が止まる。完成態としての死に近づく。
ひとりでいると、心が凪いでくる。これが自分だった、という気になる。
でも、それは違うということを私は知っている。
誰かといるときの自分とひとりでいるときの自分に序列をつけることはできない。
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