いつもいつも、忘れたい記憶ばかりが蓄積されていく。忘れたくない記憶ほど、記憶の中で歪んでいく。悲しみは何故こうも鋭利に突き刺さり、原型をとどめたまま皮膚から抜け出ないのだろう。人間の体に入り込んだガラスだって、時が経てばいつかぽろりと抜け落ちるものなのに。何故人の悲しみは、ただれた傷のように人を苦しめ続ける。私は体中がただれていて、永遠にこの傷が治らないことを知りながらそれでも尚傷を広げ続けていくしか選択肢がない。いつになったら悲しみから解放されるのか。人生とは永遠に憂鬱なのだろうか。何故常に憂鬱がつきまとい、憂鬱に悩まされ続けるのか。これまでの人生、私は誰からも愛された事はなかったかもしれない。でもこれだけは言える。私は憂鬱に愛された女だ。憂鬱だけが私を愛し私を唯一のパートナーと認め私との生活を望み私との肉体的精神的繋がりを求め私にプロポーズをし君との子供が欲しいと言ってくれた。憂鬱だけは絶対に、私を見捨てない。(金原ひとみ『憂鬱たち』)
すこし前に読んだ『憂鬱たち』の主人公の世界に相対する姿はあくまで切実で、悲しいまでの切実さが空回って痣だらけになってシニカルな笑みを切れぎれに浮かべているような、どうにも素通りできない人物造形だった。
対面ライブへの渇望をCOVID-19発生以後ようやく身をもって体感している。何度か観た配信ライブはそれはそれで良かったけれど、会場のざわめき、客電が落ちる瞬間の緊張と高揚、息をひそめて演者の登場を待つ時間、舞台上の彼らが本当に自分と地続きの空間に存在していることをその目で確かめる感動、さまざまな経路で同じ芸術に魅せられここに辿り着いた大勢の観衆の中のひとりであるという感覚、そのどれも画面越しには味わうことができない。好きなバンドはわりと単発で対面もやっているので行こうと思えば行けなくはないのだけれど、高速バスで遠征はさすがに怖いなとびびっている。そういえばGRAPEVINEは対面で秋ツアーやるらしいわね。いいな。
卒論は弱音を吐きに吐きまくっている。提出できないよりは人に頼った方がマシという方針の下、できていないならできていない現状を報告する。報告連絡相談。この世に相談という概念が存在して本当に良かった、なかったらとっくに自滅している。卒論からの逃避として今読んでいるのはグレッグ・イーガンの『順列都市』、人間が自らをスキャンして生成したソフトウェアの分身をコンピュータ上で生かすことが可能になった近未来。肉体が死んだ後もソフトウェアの「コピー」を半永久的に存続させるためにはもちろん物理世界のコンピュータを動かすための金が要る。世知辛い。逃避その2を兼ねて情報処理資格の勉強を若干やっているのでモチベーションを保つのにちょうどよい。大学入試の成績開示で得意だった国語よりも数学の点数が高かった事実を、世の中の平均と比べれば自分に数学のセンスがないわけではないだろうという楽観の根拠にしている。実際はどうだろうね。でも仕事で行き詰まるとしたら技術関連ではなくコミュニケーション関連だという予感がすでにある。ふつうのひとは世間話にうつむいて言葉を選んだりはしない。
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