2020年10月30日金曜日

あるいは懐疑としての愛

 時間軸上のすべての自分は他人であると思えば、書かれた日記は未来の自分に対して過去の自分がかつて存在したことを証明する痕跡となる。今の私が存在するためには過去の私を捨てねばならなかった。未来の私も今の私を捨てるだろう。ためらいもなく。私たちは同時に存在することができない。活動の動機を問われて、この世界に何かを残したかったから、とたくさんのひとが答える。それは通常自分が死んだ後の人々にも認識される何かを残したい、あるいは他人に自分の価値を認めてもらいたいという意味で理解される。わからなくはないけれど、どことなく切実さを欠いた悠長な願望に見えることもある。「何かを残したい」という言葉は、未来の自分に対して瞬間ごとに失われてしまう今の自分を残したい、という意味にも取れる。その方がふさわしいのではないかと考える。ふと立ち止まって後ろを振り返ると、歩いてきたはずの道が立つ足のすぐ後ろで消え去っている。あるいは霧がかかったように過去を見通せない。自己同一性を支えていると思っていた一貫した完全な記憶なんてどこにもない。途端に足場がぐらつき、梯子を外されたような不安に襲われる。生きていて、今の自分がなぜ自分であるのかがわからなくなること以上のこわさはない。恐怖を予期して、今の自分が何を思い何を感じているかを、他人である未来の自分にもわかるように形にせずにはいられない。そういうことであれば、「何かを残したい」衝動は生きるために常に切実なものになるかもしれない。私たちは同時に存在することができない。己の屍を栄養として育つ。

結局はこういう文章もそれに似た動機で書いているのだろうと思う。データが失われたときに備えて定期的に人格のバックアップを取っておく。たぶん私は自分の意識というものを根本的に信用していない、おそらくは理性のことも。信用していないものばかりに惹かれてしまう性向がある。いつ裏切られるだろうとはらはらして愛おしい。

0 件のコメント:

コメントを投稿