フラニーとズーイを読み終わる。予想以上に宗教的な話だった。そして生きることについて。観念的ではなくて具体的に生活をするということについて。
つまり、周囲の人間がどれほど愚かしく見えたとしても、それを罵倒したり嘆いたりしながら自分だけは理想的な世界に逃避しようとするのではなく、自分自身とキリストだけのために完璧な演技(生きること)をしろ、ということなのか。確かに全てが相対化されようとする最近の社会では、こういった絶対的な信念が拠り所になると思う。
フラニーとズーイは並外れた知能と特殊な教育のおかげで、全ての他人に対して懐疑的にいちゃもんをつけずにはいられないという憂鬱を手にしてしまった。賢いが故の苦悩ということか。こういう話が読み継がれるのは、読んだ人が自分も高等な知能を有しているような錯覚に浸れるからということもあるんだろうか。
しかし。宗教を持たない、持ったとしても唯一の神を持たない日本人であるわたしはこの話のキリストをどう読み替えればいいのだろう。
何にせよ、何かを信奉するにしても理想化した何かじゃなくてありのままの対象を見ろよ、というのはとても響く。
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