昔父親が毎年買ってきていた芥川賞受賞作品掲載号の文藝春秋を、目次から広告まで舐めるように、活字を消費するように読むのが好きだった。夏の湿っぽくひんやりした畳の感触と、電気をつけずに障子を透して日光が差し込む緑がかった和室の空気を思い出す。
好きだったというよりも、今になって懐かしく思い出すという感じだ。当時の私にとっては、他にやることもないので仕方なく過ごしている日常の一部に過ぎなかった。
何年か後になったら今の生活も、こんなふうに色付けされた思い出に変わるのだろうか。喉元過ぎれば熱さを忘れ、本当につらかったことでも数年経てば甘美な思い出に変色してしまう私の頭は、呪わしいのか喜ばしいのかわからない。
たとえば「母校が好きだ」と言う時の私は、不純な思い出に支配されている。
「母校は好きではなかった」と言える人は、過ぎ去った辛さの新鮮味を失わずに持ち続けている。
努めて本当のことを言うならば、在学中は母校を好きでも嫌いでもなかった。おそらく。授業はこなすものだった。テストの点にそこまで関心は払わなかった。好きな教師も嫌いな教師もいたけれど、どうでもいい人が大半だった。クラスメイトも同じ。部活は辛いけれど唯一の居場所だった。
それくらい。
それくらいの、可も不可もない生活は、思い出フィルターを通せば簡単に「好き」に変換されてしまう。ざらついた生の感情が失われて、変にすべすべした他人事みたいになってしまう。
青山七恵のあの小説、なんという題名だったっけね。
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