十代の頃や思春期に触れたものが人生に与える影響力は絶大だという言葉を誰もかれも口にしていて、それは一種の信仰のようだと思う。思春期を神聖化するのは幼い子供を純粋無垢と捉えるのと似ているけれど、幼年時代ほど鈍感で冷酷で希望のない時代はなく、歳をとるほど暗黒に光が差すように解放されていくのだとしか私には考えられない。生きているかぎり失いつづけ新たなものを手に入れていくのであれば過去の一時期に特別な地位を与える理由はないし、生きている時間が長くなるにつれて「今この瞬間」に絡まる意味の総量は重くなる。ものを知らない時代にうけた衝撃は更地に蒔かれた種のようで、その後に触れるものの路線を確かに規定しはするけれど、人格があるていど固まったあとの衝撃は器用な指先が見えない打撲痕を正確に押すように現れて、余計にたちが悪い。たちが悪いなあと言いながら笑ってしまう。嬉しくて。この痛みを感じる主体が存在していて嬉しい。私がその主体であって嬉しい。そうやってどんどんうちのめされてすりつぶされて粉々の塵になって消えたい。私が消滅するのが楽しみだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿