2024年5月20日月曜日

キャッシュクリア

部屋の模様替えをした。というか、している。
だいたい1年周期で、家具を増やしたり捨てたり移動させたりする。言葉にできない些細な不便や違和感は毎日寝起きしていれば慣れてしまうものだが、日々すこしずつ溜まる澱のような何かに耐えられなくなる瞬間がたぶんそのくらいの周期で訪れる。部屋に残ったキャッシュが頭を濁らせている。捨てるべきものが増えすぎている。それが閾値を超えたとき、模様替えが発生する。

前回はちょうど転職を決めた時期で、在宅勤務環境が著しく悪いことにそのとき初めて気がついたのだった。それから1年経った今は、寛ぎという観点がこの部屋からまったく抜け落ちていることに初めて気がついた。働くための部屋、睡眠をとるための部屋、大量の本を収納するための部屋。部屋の在り方としてそれ以外の選択肢があろうとは思いもしなかった。思いもしなかったが、どうやら存在するようなので、インスタグラムでインテリアを検索したりしている。それは今までになかったことで、楽しいことだ。

PCゲームにデビューした。およそゲームというものに触れずに生きてきたので、DSもWiiもプレステもSwitchも所有したことがない。ゲームの中で何かを成しても現実の世界には何も残らないからやる意味がない、と小学生の私はおそらく考えて、お年玉でゲーム機を買おうかどうか悩むことすらもしなかった。しかし今考えれば、本や映画や音楽や、あるいはめったに行かない旅行に対して私がひとしく求めているのはその瞬間の体験の感触のみであって、後に何が残ろうと残るまいとそこに関心はないはずだった。ゲームもそれらと同じ類のもの、ひたすらに瞬間の体験を楽しむものだったのだ。それに気づくことができたのは、驚きであり喜びだった。

幼少期の私がゲームに興味を抱かないことを選択したのは、ゲーム機本体とは別に買って読み込ませる必要があるゲームソフトという存在をよく理解できなかったからだ、という可能性は大いにある。ハードウェアとソフトウェアという概念は7歳の私にはなかった。わからなくても面白がる感性も持っていなかった。極端に保守的な子供だった。今ではその面白さがわかるし、それらの概念を当然の前提知識とする場所で働いているのだから皮肉なことだ。私はどんどん別の人間になっている。そう信じていられる限りは希望を持てる。

些細なことに感動を見いだせるのは裏返せば視野が極端に狭いということで、視界の外側への想像力の乏しさがしばしば私を縛る。今見えている選択肢を過去にも認識できていればよかったのにと思うことはこれまでもあったし、この先もある。そういうものだと諦めて、自分にかけていた縄の結び目をひとつひとつ解いていく。

2024年4月6日土曜日

20240406

 すでに存在するものの中からあるものを手に取り、あるものは手に取らない取捨選択ができるという意味において(あるいは休日の過ごし方を思いつかずに悩むことがないという意味において)私には思想があり趣味があるといえるのかもしれなかったが、その思想なり趣味なりに沿う新しいものを作り出したい、作らずにはいられない熱量を持たずにここまで生きてこられてしまったことにはまだ僅かな負い目や未練のようなものがあるのだなと、髪を切った帰りにいくつか古書店を覗いて買った本を鞄に詰め、暗くなりはじめた神保町を歩きながら考える。

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新年度なので新社会人か就職活動中と思しき黒髪をひとつに縛った黒スーツの人をよく目にする。パンツスーツの後ろ姿には、スカートを選ばなかった選択の意志が働いているはずなのに、その意志の結果なお既製の型に嵌められている不本意を勝手に感じ取ってしまう。それは私自身が感じていた不本意だった。就職して数年経ち、職場の服装は自由だけれど節目のために、スーツ屋ではないファッションビルのテナントでジャケットとスラックスのセットアップを買う。ジャケット丈はお尻が隠れる長さで、スラックスの幅には肌につかない余裕があり、かっちりとした印象を与えるが身体の線をほとんど拾わないその直線的なシルエットに、リクルートスーツのあの壊滅的なダサさはなんだったのかと憤りに似たものが一瞬頭をよぎる。それからリクルートスーツは無知な若者に無差別に課される産業的罰ゲームなのだとしか思わなくなった。

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1ヶ月前に来たときはカードを使えた記憶がある複数の書店で、決済手段からカードが消えていた。PayPayは使える。キャッシュレスの手数料が馬鹿にならないという話を少し前にツイッターで見たこともあって、「使えなくなった」というより「使えないようにした」という意志がどこかにあるのかもしれないとぼんやり思う。

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買った本をすぐに読むことができない。けれど買うに至ったそのときその場の逡巡や感動や意欲のきらめきは本を見るたびに思い出す。それは記録されてよいはずのものだと思うけれど、書くほどのものではない気もする。

今日は『大崎清夏詩集』、司修『月に憑かれたピエロ』、『名づけられぬものの岸辺にて 日野啓三主要全評論』を買った。詩集は3月に出たもの、後ろ2冊は長島書店で。近頃長島書店でよく本を買う。ピンチョンが何冊かと、埴谷雄高の『死霊』が3冊揃いで出ていて迷ったが、ピンチョンのハードカバーは大きすぎてうちに置く場所がないことは明らかで、『死霊』は1冊目だけ持っているのでダブらせるのもなんだかなと思ってやめた。数年前に手当たり次第に詩や短歌を読んでいた時期があり、その頃に比べれば今はあまり詩など読まなくなって久しいけれど、大崎さんの詩は読もうかなという気分。

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コンビニでホットスナックを買う際の異常な心理的ハードルがなくなったのがここ数ヶ月のことで、買えるようになったことが嬉しくて必要もないのについ買ってしまう。吸わないタバコを買うよりもホットスナックは難しかった。


2023年4月19日水曜日

小説が終わった後のフラニー

うっすらひいている自覚のあった風邪が仕事を辞めた途端に悪化したので、2週間の休暇のうち前半はあまり遠出できそうにない。本を読み、ドラマや映画やアニメを観て過ごす。

ずっと積んでいた伴名練『なめらかな世界とその敵』収録作の6分の5を読んだ。世界観が必然的に高度な筆力を要請する表題作はたしかに絶望的に面白く、とても好みではあるけれど、私にとってはある枠内での傑作にとどまっている。すごく好みの二次創作小説を読んでいるときと似た感覚になる。設定がゆるぎなく魅力的である反動で、キャラクターは随意に置き換え可能であるように思われてしまう。

白水uブックスに似た細長い判型と幅の広い帯が目に留まって手に取った大崎清夏『目をあけてごらん、離陸するから』、その中の一篇「フラニー、準備を整えて」を立ち読みして半分泣きそうになってレジへ向かった。「『フラニーとズーイ』を読んで大人になった女の子」である主人公がもう一人の女の子と間接的に出会う物語で、私も彼女たちと活字越しに出会えたことを嬉しく思った。野崎訳と村上訳をどちらも持っていてどちらも読んだけれど、原文を知らないからか最後の訳出の違いに気づいたことはなかった。その他の収録作は詩と旅の随筆が多くて、本棚の須賀敦子と多和田葉子の横に並べるのが自然と似合った。旅する詩人の系譜。

だけど私が原文で好きなところはもうひとつあって。それはフラニーがレーンと一緒にレストランにいるとき何度も何度も煙草の火を付けたり灰を落としたりもみ消したりする描写なんだ。あの描写はきっと誰にも翻訳できない。フラニーは cigarette を lit して、cigarette ash を tip するの。そして、cigarette を put out するの。わかるかな、t, t, t, って音が何度も何度も重なる、ashtray にも t が入ってる、まるで自分に向かって永遠に舌打ちし続けるみたいにフラニーは煙草を吸うんだよ。(大崎清夏『目をあけてごらん、離陸するから』)

18歳のときに通っていた予備校の数学の講師が、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の話をしたことがあった。大学を出て就職してからは自分が何かをアウトプットするばかりで、インプットする暇がなかった。最近になって学生時代に読んだ本をひさしぶりに読み返したら、こんな話だったのかと思った。そんなようなことを言っていた。私はその講師の数学を教える能力については信頼していて、それ以外についてはむしろ嫌いだったのに、講義の合間の無駄話のことはよく覚えている。いつも墨汁とお香の中間のような香水をつけてモードな洋服を着て、恵比寿に住んでいることを自慢する、気取った嫌味な人だった。東大で体育会に入っていて大企業に就職して辞めて予備校で働いている。女の子の価値は女子大生の頃がピークだからね、などと悪びれず口にして、プリントアウトした秋元康の歌詞を教室で配る。そんな人でもサリンジャーは読むのだ、と思った。今思えば、そういう人だからサリンジャーを読むのかもしれなかった。

てっきりもう出ないものと思っていた『ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス』が今月になって本当に出たので、買いに行った。『イスラエルSF傑作選 シオンズ・フィクション』を引っ張り出してきて帯を見ると、『ノヴァ・ヘラス』は2021年刊行予定と書かれていた。2年遅れてもちゃんと作ってくれてありがとう。こういう本がたくさん売れて、古本市場にもそこそこ流通してくれたらいいなと思う。文庫本に1500円も出せないお金のない学生でも、せいぜい800円くらいでこの美しい装丁の異国の物語を手に取れる機会があればいいと思う。『シオンズ・フィクション』の分厚さと値段に、少し迷ってどきどきしながら会計した大学生の自分を思い出す。

金曜日が最終出社日で、この部署には10ヶ月しかいなかったのに送別会まで開いてもらってしまった。前の部署で私が配属されてからすぐに辞めた先輩は影のようにすーっといなくなって、周りもその人はただの影だったみたいに何事もなく動いていたので、会社の中の別れってそういう機械じみたものなのかと思っていた。私も影のようにいなくなるのだろうと思っていた。部署を異動したら、ちゃんと人間らしい人たちが人間のままで働いていた。そこでは人間として働いて、人間として辞めることができた。身に余る幸せだったと思う。PCを返却する前のぎりぎりの時間で、異動する前の部署の上司や先輩へ挨拶を送った。みんなすぐに前向きな応援の言葉を返してくれて、最後に一往復のやりとりをすることができた。これからの私もその人たちとともにある。転職するけれど、背水の陣ではなくて、帰れる場所がひとつ増えたのだと思う。色々なことがあったけれど、いい会社だった。こうやって終わったことを終わったそばから美しい嘘にする。

2023年4月9日日曜日

我に返る隙間

近況。

最近のTwitterの不安定ぶりを見るにつけても結局のところ書いた文章がいちばん残るのはブログなのだろう。分散型SNSのFediverseに参入してそれなりに楽しく過ごしているものの、そうまでしてインターネットで不特定多数の個人とつながらなくてはいけない理由はどこにあるのだろうと考えてしまう。本当は真っ白な壁に囲まれた何もない部屋でひとりでぼおっとしていたい。

去年の夏に新しいノートPCを買ったけれど、新しいPC(DELLのInspiron)のキーボードの打ち心地がぺらぺらしていてモチベーションが下がる上にWindows11の動作が不安定なので、結局学生時代から使っているThinkPadのほうを開きたくなる。打鍵感が気に入っているのでThinkPadの無線キーボードをそのうち買おうと思う。

 半年から1年くらいの間ずっと、グレッグ・イーガン『ディアスポラ』、中上健次『地の果て 至上の時』を交互に読む生活をしている。情緒をつかわない読書しかしていない。SFは架空の理論や世界観を理解する読書でなかば技術書を読んでいるようだし、中上健次の文章はくどいくらいに過去の出来事の振り返りを挿入してくれるので、時間が空いて記憶が薄れても困らない。秋幸はあちらの世界でちゃんと生きているので、私が半年くらい放っておいても全然平気なのである。小説で新しい物語を楽しもうとする意欲がめっきり薄れていて、そちらはもっぱら映画で摂取している。ここ1年ほどでインストールした価値観の中に、映画は小難しいものから頭を使わないアクション、ホラー、B級までひとしく娯楽として受け取るのがよいというものがあり、体に馴染ませるべく実践している。

机と椅子を一新した。 去年のGWくらいに買った椅子がとんでもなくごつい代物で、あきらかに私の体格では座り心地が悪いのに、そのときは試座したうえで全然問題ないと思って買ったのだった。この錯覚はどういうことなのだろう。とにかく毎日座面の上で立て膝もしくはあぐらという最悪の姿勢で仕事をしていてこのままでは腰や背中の負担がやばいので、もっと小振りな椅子に買い替えようと思っていた。今ようやく床に足が全面つくことのありがたみを享受している。机も高さを65cm程度に調節できるものにして、家具の配置をすこし変えた。それだけのことなのに空間を濁らせていた圧迫感が嘘のように消えた。

新年度が始まったけれど目下の仕事が暇で暇で勤務時間を持て余している。というのは私があと1週間で職を転じることになっているので仕方のないことなのだけれど、それにしても暇というのはこの世の苦痛の中で二番目に耐えがたい。一番はシーシュポスよろしく意味を見いだせない作業を終わりなく続けることで、これをやるくらいなら死んだほうがいい。

 ブログのドメインを変えようと思って断念した。高校生の自分がなんとなくつけた変なドメインをそろそろなんとかしたかったのだけれど、いざ新しい名前をつけようとしても何かしらの趣味や思想が反映された陳腐な単語しか思い浮かばなかった。ここはずっとそのまま、あの頃の私の稚拙な箱庭のまま。

春のうすぼんやりとした落ち着かなさとぬるい空気が好きではない。それでも今月は自室の居心地をすこしだけ良くすることができたので、この部屋で春が過ぎるのを待つ。

2022年9月10日土曜日

(きらきら)(きらきらきら)

日常は確かに倦怠がいたるところに散りばめられてはいるものの、異動してからは驚くほどに仕事がたのしい。知らないことを知るのが仕事の一部であり、それでお金をもらえているのはとても幸福なことだ。すくなくとも今は。いつでも風向きはかわりうる。

展覧会もライブもひとりで行く理由は、ひとりがいちばん適しているからだ。対象と私の一対一の神聖な空間に割り込む他人は雑音にほかならない。読む本にも聴く音楽にもひとりで(他人が媒介したとしても選ぶのは自分だ)、出会うことができる。独立したシステムとして存在している。狭量で潔癖な理想としてそれはある。

プログラムは素直で可愛い。自然言語の次に好きだ。