2018年12月14日金曜日

あれは遺影だったのかもしれない、と今になって思い至った。題材に自画像を選んだのも絵を展示していた学祭が終わってすぐに髪を切ったのも特に理由があってのことではなかったけれど、結果としてはある特定の自己像を自分から分離させる過程だったといえる。特定の自己像、有り体に言ってしまえば世間知らずの女の子としての私だろう。大学に入ってからの新鮮味と不自由さを体現するその像には愛着も嫌悪もあった。3年弱の間それをかぶって戦地を生き延びてきたことを思えば単純に捨てるには忍びなく、カンバスの上にそれをとりのけておこうと思ったのかもしれない。展示を見て「ちょっとこわい」とのコメントを残していった名も知らない人の気持ちを想像する。よくわかる。私もこわい。あの絵に何がうつっているのか自分でも完全にはわからない。ひんやりとした情念があるように見える。矜持が見える。自己防衛のための見せかけの軽蔑が見える。結局はそこが私の弱点であり限界であるのだろうと思う。

2018年12月9日日曜日

映画感想メモ

*アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ@出町座
12/8『不滅の女』
カメラの移動と画面の人物の目線移動がシンクロして、水中か夢の中のような妙に平坦で張り詰めた時間が流れていく。イスタンブールの情緒が夢幻的な艶かしさを増幅させる。意味ありげに繰り返し現れる伏線的要素は最後まで明らかにされることがなく、その判然としない感じは女の辿った運命を終盤で男が強制的になぞらされることの衝撃で打ち破られる。ただ受け入れるよりほかない、避けがたい悪夢のような暴力性。絵画のように静止した画面の中で服の裾や髪だけが風に揺れているのが好きで、園子温の『ひそひそ星』の荒廃した地球を少し思い出した。決して正体を明かさない謎めいた女は魅力的だけれどわたしはそうはなれないなあ、ていうか現実の人間のほとんどはなれないよなあ。と思いました。

2018年12月7日金曜日

内なる書物の共有不可能性

教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。(pp.33-34)
われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合〈遮蔽幕としての書物〉でしかない。[中略]二人の各々が、独自の内的プロセスを経て、 ひとつの想像上の書物を作りあげているのである。つまり二人は同じ書物について語っているのではないのだ。こうしてこの書物の自己投影的性格はいやがうえにも強まる。それは二人の幻想を受け止める器となるのである。(p.85)
たとえばわれわれの恋人選びは、読んだことのある小説の登場人物に大きな影響を受ける。われわれは小説をつうじて到達できない理想をいだき、恋する相手をその理想になるべく近づけようとするのである。それがなかなかうまくいかないことはいうまでもない。より広くいえば、われわれが愛した書物というのは、自分が密かに住んでいて、相手にも合流してほしいと思うひとつの世界全体を浮かび上がらせるのだ。 二人の読んだ書物がすべて同じだとはいわないまでも、少なくとも読んだ書物のなかに共通の書物があるということは、愛する者どうしが理解しあう条件のひとつである。関係のはじめから、相手に自分は共通の読書経験をしていると感じさせることで、自分が相手の期待に応えられる人間であることを示す──そのような必要もそこから生まれる。(p.162)
しかし二人の人間が互いの〈内なる書物〉を──ということは互いの内的宇宙そのものを──一致させることは、フィルのように時間を無限に繰りかえすことができる世界にでも住んでいないかぎり、現実には不可能である。 (pp.170-171)

 『読んでいない本について堂々と語る方法』から抜粋、すべて新奇な考えというわけではないけれど改めて言語化されるとああそういえばそうだったね、見ないふりをしてきたけれど光の下に差し出されてみるともっともなことだねと思う。

つねに〈他者〉が聞きたいと欲している言葉を発すること、まさに〈他者〉がそうあってほしいと望んでいる人間であること、それは、逆説的ながら、〈他者〉を〈他者〉と認めないことにほかならない。逆にいえば、それは、みずから〈他者〉に対して脆く不安定な主体であることをやめることである。(p.172) 

読書/未読書のテーマから少々逸脱したこの箇所が一番印象に残る。他者を他者と認めないこと、他者を自分の拡張とみなそうとすること、意見を擦り合わせる労力なしに意識下で通じあおうとすることの怠惰、なんたる怠惰。それは現実に起こりえないことであるにしても幻想としては存在し、その幻のなかでは自己と他者の輪郭が溶けだしてあいまいに混合される。境界線が崩れていくことは恐怖であると同時に快楽でもあるから厄介だなあ。

かきこわし

おかしいのはわたしの方で、だってもう傷つきたがっている、傷つきが足りなくなっている。このあいだ処方してあげたばかりでしょう、医者は呆れ顔、そうだわたしは呆れられたい、呆れながらそれでもあなたを見放しはしませんよと言外の寛容さをのぞかせた顔をさせたい、でも誰に? 喉元過ぎれば熱さを忘れる要領で刃が上がればギロチンを忘れ、断たれた首は断面があんまり滑らかなのでぴったり元の位置に収まって、処刑の前日に誰かが刃を研ぎすぎたのだ、もっとぎざぎざ錆びついていればわたし死んだままでいられたのにね。わたしの血小板はことばでできているらしく、血が流れるやいなや血流にのって押し寄せてくる活字の群れが、破れた血管のうえに巧妙に網を張る、みたこともないようなあたらしいつなぎ目。すみずみまで探検するには時間がかかるからあんまりはやくなおりきってしまわないようにあらがってあらがって、そろそろ限界がくる、傷つきが足りない。

2018年12月6日木曜日

寝室

まだ生きているそれを殺すのどんな気持ちだった。わからない、どんどんわすれていくよ、時が経っていくからね。どんなふうに手をかけたの、どんな顔でみていたの、みるみる目減りしていく命を、そのときのあなたは今のあなたと同じ人? そのときのわたし、もうずっとずっと深い底へ沈んでしまったから、沈んでいくそれを追いかけて身を投げることもできたけれど、岸にたたずんでただ見ていたから、白くて長い衣の端が青緑の奥へと逃げていく優美な動きの残像しか残っていない、ほら、見えるでしょ。絵を描く暇なんてなかったよ、だってあんまりあっという間のことだったから、だけど言葉にはほんの少しだけ写しておいた、だってあんまり綺麗だったから。そう、あのときあの場所でなかったら生まれなかったはずの美しさだった、生まれたばかりで死んでいくものだけが放つ痛ましい輝きだった、まぶしい光を散らかしながら薄い破片が飛んできて、首筋に刺さって血が流れた。温かく零れる血もいずれ冷えて固まり、だけどわたしは、ぼくは、おれは、きみは、きっと性懲りもなくまたそれを信じるよ、信じていいよ、醜いままでそれは美しい、凍りつく冬の夜空のように透徹してきみを、抱きしめるよ。そして再び来たる満月の夜、上品にきらめく針の一突きが心臓に穴をあけ、糸を通して染め上げるよ、きみが楽しんだぶんだけ、苦しんだぶんだけ、その色は濃く深まって、するする通り抜ける糸を追って、重力の腕にすべてをゆだねる気もするする失せていく。その糸で何を織るの、何を織ってもいい、ただ自分のためだけに、自分のどこかを繕い塞ぐためだけに使わなくてはいけない、それがどこかって、もうわかっているでしょう、その作業が終わったときにはすべてが元通り、何も心配することなんてない。何も心配することなんてないよ、ほら夜明けの最初の光が、まだ見えないけれどあの山の裏側を温めて、もうすぐ乗り越えてこようとしている、もう部屋へ帰りなさい、扉は静かに閉めて、皆を起こさないように、それじゃ、ゆっくりおやすみ。

2018年12月2日日曜日

ここは心象と言葉遊びの庭に建てた城だから、書いていることは事実と必ずしも符合しないことをことわっておく。誰にも向けられずただ一人遊びのためだけに生み出される言葉は、伝えたり伝えられたりする言葉は、あと一押しで告げてしまう瀬戸際で踏みとどまっている言葉は、どれもそれぞれに楽しい。告げた言葉がつくる自分と告げなかった言葉がつくる自分。告げなかった言葉を積みあげてつくる城。祝福と呪いが一体となるまでに考えつめているひとのこと。ずっとずっといつまでも、海の底みたいに青く揺蕩う光の中で生きていてほしい。煩わしい現実から隔絶されて、静かに連綿と続く美を愛して、自分の秩序に適うものだけに囲まれていてほしい。いつかそこを出なくてはならなくなったときには灯を吹き消すことを選んでほしい。そして本当のすべてが始まる前に、夜明けの光が射し込む前に、呼吸を止めてしまえ。