教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。(pp.33-34)
われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合〈遮蔽幕としての書物〉でしかない。[中略]二人の各々が、独自の内的プロセスを経て、 ひとつの想像上の書物を作りあげているのである。つまり二人は同じ書物について語っているのではないのだ。こうしてこの書物の自己投影的性格はいやがうえにも強まる。それは二人の幻想を受け止める器となるのである。(p.85)
たとえばわれわれの恋人選びは、読んだことのある小説の登場人物に大きな影響を受ける。われわれは小説をつうじて到達できない理想をいだき、恋する相手をその理想になるべく近づけようとするのである。それがなかなかうまくいかないことはいうまでもない。より広くいえば、われわれが愛した書物というのは、自分が密かに住んでいて、相手にも合流してほしいと思うひとつの世界全体を浮かび上がらせるのだ。 二人の読んだ書物がすべて同じだとはいわないまでも、少なくとも読んだ書物のなかに共通の書物があるということは、愛する者どうしが理解しあう条件のひとつである。関係のはじめから、相手に自分は共通の読書経験をしていると感じさせることで、自分が相手の期待に応えられる人間であることを示す──そのような必要もそこから生まれる。(p.162)
しかし二人の人間が互いの〈内なる書物〉を──ということは互いの内的宇宙そのものを──一致させることは、フィルのように時間を無限に繰りかえすことができる世界にでも住んでいないかぎり、現実には不可能である。 (pp.170-171)
『読んでいない本について堂々と語る方法』から抜粋、すべて新奇な考えというわけではないけれど改めて言語化されるとああそういえばそうだったね、見ないふりをしてきたけれど光の下に差し出されてみるともっともなことだねと思う。
つねに〈他者〉が聞きたいと欲している言葉を発すること、まさに〈他者〉がそうあってほしいと望んでいる人間であること、それは、逆説的ながら、〈他者〉を〈他者〉と認めないことにほかならない。逆にいえば、それは、みずから〈他者〉に対して脆く不安定な主体であることをやめることである。(p.172)
読書/未読書のテーマから少々逸脱したこの箇所が一番印象に残る。他者を他者と認めないこと、他者を自分の拡張とみなそうとすること、意見を擦り合わせる労力なしに意識下で通じあおうとすることの怠惰、なんたる怠惰。それは現実に起こりえないことであるにしても幻想としては存在し、その幻のなかでは自己と他者の輪郭が溶けだしてあいまいに混合される。境界線が崩れていくことは恐怖であると同時に快楽でもあるから厄介だなあ。
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