生きることは日々を生活することだ、という主張に、薄々説得されかけながらも認めたくない自分がいる。何かを成し遂げ、遂げられずとも痕跡を残すことが人生だと、小さい頃からかたくなに信じてきたからだ。
成長の中で、ある時期に至るまでは、人の可能性というものは広がっていくものだと思う。おそらく中学生くらいまでは。高校生から先は、広がった選択肢を徐々に絞り込んでいく時期だ。と、一般的には考えられている。
私はそれに気がつかないふりをしていた。いつまでも「いつか」を夢見ていられると漠然と思っていた。
だけどもう、目を逸らせなくなってきている。このところ「生活を主体的に送る」ためのライフハックに目が行きがちなのは多分そのせいだ。
丁寧に生活をする。家具や衣類の手入れをする。ラムレーズンなんかを自分で漬けてみる。DIYで台所の壁にタイルを貼る。洋服を自分で縫う。
どれも素敵だ。他人がやっているのを見ると尚更素敵に見える。だけど、「上質な生活」の象徴のようなそれらの手のかかる作業を丁寧に丁寧に遂行するためには、時間とお金の余裕が要る。一方で、何かしらの分野で爪痕を残すには、仕事や限られた趣味だけに時間とお金をつぎ込むことが必要だ。
この二つは両立不可能だ。
というより、「丁寧な生活」のあれやこれやは総合して一つの趣味と言えるのだろう。他に打ち込むもののない人たちが最終的にたどりつく趣味。
それでも、いくら丁寧に上質な日々の暮らしを維持したところで、死んでしまったらなにも残らない。残さず食べられるために手間をかけて作られる料理。創造する端から消費していくゲーム。そんなのって虚しくないか。でもそれが人生だという人のなんと多いことか。
ここにも選択の時間制限が迫ってきている。まず生活を整えなければ、と言っていると他の事をする余裕がなくなる。なにかひとつに打ち込めば、生活がこわれる。なにごともほどほどに、というのがとてもむずかしい。生活を整えろ、と言われても、最低限生きていられればいいのよ、と言われても、それぞれの極端を攻めなければならないような気がしてしまう。
気がつけば大学も2年めになる。怖い。恐ろしい。中学の卒業式の帰りに浮き足立って桜の写真を撮りながら歩いたのは昨日の事のようなのに。このブログを最初につくったのも確かその日だったか。記事はだいぶ消してしまったけれど。人生、って、何なんだよ。どこかで立ち止まるための猶予を下さい。
2017年3月13日月曜日
働くことと自尊心
春休みだ。暇だ。
というわけでアルバイトをしていた。東京に帰省した直後から、1日限りの登録制派遣バイトを1週間ばかりやった。荷物の梱包作業、ギフト商品や細々したものを作る内職、メール便仕分け、駅伝の会場設営。
就業前に私が抱いていた「大学生の短期バイト」のイメージに近かったのは最後の会場設営だけで、その他の職場は学生は少なく本業の日雇い労働者の人がほとんどだった。
結論から言うと「辛かった」のだけれど、なんだか言葉にしづらい気持ちが残っている。
会場設営のバイトで、(おそらく日雇いで)28日間休みなしで働き続けているという男性がいた。家に帰るのも面倒なので、勤め先の休憩室に泊まっているという。他の人たちと同じくその人もくたびれた雰囲気を醸し出していたけれど、3.11や熊本の震災の時には、率先してボランティアに行ったのだという。飛行機代も、自腹を切って。
私はそれを聞いて、純粋にすごいなと思った。安定した職に就いている人なら、「仕事があるから」を大義名分として、見て見ぬ振りをする人が多いんじゃないの。少なくとも私ならそうしてしまうだろう。日雇いだからこそできることをしている人もいるんだな、と光を見た気持ちになった。
後日、家でその事を話すと、「そういう人は社会とのつながりを得たいからボランティアにいくのよ」と言われた。確かにそうかもしれない、とも思った。でも、結果としてその人は被災地の役に立ったわけだし、いいんじゃないか。
工場で荷物の梱包作業をしていたとき、ラインの隣にいたおばあさんはとても親切な人で、私の名前を聞くと「きれいな名前ね」と言ってくれた。それから、折り畳み式コンテナを畳むのにいちいち拳で側面をガンガン叩いていた私に、「そんなやり方じゃ手が痛くなるだろう」と言って、簡単な畳み方を教えてくれたおじさん。彼の顔からは疲弊が滲み出ていて、皺の刻まれた顔には笑みの切れ端すら浮かぶことは無かったけれど、非人間的な工場ではそんな一言でも嬉しかった。こんな、機械の補完としてのみ人間が存在しているような空間で個人的にかけられる一言は、無人の砂漠で初めて人間に出会えたことのように感動的だった。
だけど、あの現場で毎日働いてまで生きることにしがみつくくらいなら、私は死んだ方がマシだとも思ってしまった。だって、1週間弱働いただけの私でも、最終日には自分が人間扱いされないことに少しずつ慣れ始めてしまっていたのだ。恐ろしいことに。これが1ヶ月も続いたら、私の自尊心、自分を大切にする気持ちは簡単に壊れてしまうだろう。ああいう働き方をすることは、あくまで私にとっては、自分自身を貶めることになると感じた。
もうひとつ、ゆりかもめに乗ってお台場の仕事現場に向かいながら考えたこと。
ゆりかもめからはキラキラ光を反射させる海が見えた。前衛的な形の綺麗なビルも見えた。これから携わる業務の過酷さを思って陰鬱な気分だった私にとって、その景色は自分を支える杖になった。そして、ゆりかもめに乗って毎日通勤する人の中には、その時の私と同じ気持ちを持っている人もいるんじゃないか、と思った。
私は今まで、就職活動で大企業を志望する人がなぜこれほど多いのか分からなかった。みんな、そんなに体面にこだわるプライドの高い人ばかりなのだろうか、と不思議に思っていた。でも、連日不本意な(?)業務をしてみて考えが変わった。
仕事が忙しかったり体力的にキツかったりして耐えられないほどつらい状況のとき、「私は都心のピカピカのビルに毎日通勤している」とか「私は高い賃金を得て社会的にも高い位置にいる」ということを杖にして辛うじて自分を支えている人も沢山いるんだろうなと。
仕事をする以上、圧倒的に楽な仕事というのは多分無いだろう。ネームバリューのある高待遇な職場とネームバリューがなく待遇も悪い職場のどちらかで同じくらいつらい業務をしなくてはならないとしたら、誰でも前者を選ぶだろう。
そもそも平日すべての朝から晩まで拘束されることだけでも相当なストレスだと思う。その対価として、それなりの対外的地位や高い待遇がほしくなるのは人間として当然なのかもしれない、と感じた。人間として当然というか、自分を大切に出来ている人、自分の価値を高く見積もっている人ならそうするだろう、と思った。
日雇い派遣のアルバイトは、“そこそこの自尊心を持った人”なら耐えられないだろうと思う。そこに馴染んで生き残ることは自尊心の面からすると決して幸せな状況ではない。 勤め先の規模や名前を気にするのは、プライドや世間体の問題だけではなくて、仕事をしながら自分の心を保って生き残るための生きる術でもありうるのだと理解した。
連勤が終わって実家の自室に敷かれたふわふわのラグに頬をつけてうつ伏せに寝転ぶと、ふっと心が解けた。私は、生きてきたんじゃなくて、育てられて、生かされてきたんだなあ、と静かに思った。今まで気がつかなかったけれど、私は箱入り娘だったんだなあ。ばかみたいだけど心からそう思った。
そして、安定と挑戦のどちらを求めるべきかなんていうのは、二択の問題ではないのだ。どちらも求めていい、保身は決してわるいことではない。自分が自分を大切にできる環境を自分で選ぶことは必要だ。
特に締めの言葉もないけれど、書きたいことは書いたのでここで終わり。
というわけでアルバイトをしていた。東京に帰省した直後から、1日限りの登録制派遣バイトを1週間ばかりやった。荷物の梱包作業、ギフト商品や細々したものを作る内職、メール便仕分け、駅伝の会場設営。
就業前に私が抱いていた「大学生の短期バイト」のイメージに近かったのは最後の会場設営だけで、その他の職場は学生は少なく本業の日雇い労働者の人がほとんどだった。
結論から言うと「辛かった」のだけれど、なんだか言葉にしづらい気持ちが残っている。
会場設営のバイトで、(おそらく日雇いで)28日間休みなしで働き続けているという男性がいた。家に帰るのも面倒なので、勤め先の休憩室に泊まっているという。他の人たちと同じくその人もくたびれた雰囲気を醸し出していたけれど、3.11や熊本の震災の時には、率先してボランティアに行ったのだという。飛行機代も、自腹を切って。
私はそれを聞いて、純粋にすごいなと思った。安定した職に就いている人なら、「仕事があるから」を大義名分として、見て見ぬ振りをする人が多いんじゃないの。少なくとも私ならそうしてしまうだろう。日雇いだからこそできることをしている人もいるんだな、と光を見た気持ちになった。
後日、家でその事を話すと、「そういう人は社会とのつながりを得たいからボランティアにいくのよ」と言われた。確かにそうかもしれない、とも思った。でも、結果としてその人は被災地の役に立ったわけだし、いいんじゃないか。
工場で荷物の梱包作業をしていたとき、ラインの隣にいたおばあさんはとても親切な人で、私の名前を聞くと「きれいな名前ね」と言ってくれた。それから、折り畳み式コンテナを畳むのにいちいち拳で側面をガンガン叩いていた私に、「そんなやり方じゃ手が痛くなるだろう」と言って、簡単な畳み方を教えてくれたおじさん。彼の顔からは疲弊が滲み出ていて、皺の刻まれた顔には笑みの切れ端すら浮かぶことは無かったけれど、非人間的な工場ではそんな一言でも嬉しかった。こんな、機械の補完としてのみ人間が存在しているような空間で個人的にかけられる一言は、無人の砂漠で初めて人間に出会えたことのように感動的だった。
だけど、あの現場で毎日働いてまで生きることにしがみつくくらいなら、私は死んだ方がマシだとも思ってしまった。だって、1週間弱働いただけの私でも、最終日には自分が人間扱いされないことに少しずつ慣れ始めてしまっていたのだ。恐ろしいことに。これが1ヶ月も続いたら、私の自尊心、自分を大切にする気持ちは簡単に壊れてしまうだろう。ああいう働き方をすることは、あくまで私にとっては、自分自身を貶めることになると感じた。
もうひとつ、ゆりかもめに乗ってお台場の仕事現場に向かいながら考えたこと。
ゆりかもめからはキラキラ光を反射させる海が見えた。前衛的な形の綺麗なビルも見えた。これから携わる業務の過酷さを思って陰鬱な気分だった私にとって、その景色は自分を支える杖になった。そして、ゆりかもめに乗って毎日通勤する人の中には、その時の私と同じ気持ちを持っている人もいるんじゃないか、と思った。
私は今まで、就職活動で大企業を志望する人がなぜこれほど多いのか分からなかった。みんな、そんなに体面にこだわるプライドの高い人ばかりなのだろうか、と不思議に思っていた。でも、連日不本意な(?)業務をしてみて考えが変わった。
仕事が忙しかったり体力的にキツかったりして耐えられないほどつらい状況のとき、「私は都心のピカピカのビルに毎日通勤している」とか「私は高い賃金を得て社会的にも高い位置にいる」ということを杖にして辛うじて自分を支えている人も沢山いるんだろうなと。
そもそも平日すべての朝から晩まで拘束されることだけでも相当なストレスだと思う。その対価として、それなりの対外的地位や高い待遇がほしくなるのは人間として当然なのかもしれない、と感じた。人間として当然というか、自分を大切に出来ている人、自分の価値を高く見積もっている人ならそうするだろう、と思った。
日雇い派遣のアルバイトは、“そこそこの自尊心を持った人”なら耐えられないだろうと思う。そこに馴染んで生き残ることは自尊心の面からすると決して幸せな状況ではない。 勤め先の規模や名前を気にするのは、プライドや世間体の問題だけではなくて、仕事をしながら自分の心を保って生き残るための生きる術でもありうるのだと理解した。
連勤が終わって実家の自室に敷かれたふわふわのラグに頬をつけてうつ伏せに寝転ぶと、ふっと心が解けた。私は、生きてきたんじゃなくて、育てられて、生かされてきたんだなあ、と静かに思った。今まで気がつかなかったけれど、私は箱入り娘だったんだなあ。ばかみたいだけど心からそう思った。
そして、安定と挑戦のどちらを求めるべきかなんていうのは、二択の問題ではないのだ。どちらも求めていい、保身は決してわるいことではない。自分が自分を大切にできる環境を自分で選ぶことは必要だ。
特に締めの言葉もないけれど、書きたいことは書いたのでここで終わり。
2017年2月25日土曜日
大学のこと
大学に入ってもうすぐ一年が経つ。一年前の今日は入試を受けていた。多少おおげさに書くならば別段緊張もしていなかった。二日間の試験を終えてホテルへ帰るタクシーの中で初めて「受かるかも」という感情が湧いてきて、「受かっちゃったらどうしよう」なんてことを喋って呆れられた。結果、受かってしまった。
こんなことを言うと反感を買いそうだけれど、私にとってこの受験は力試しみたいなもので、目的は入学試験であって入った先の大学生活ではなかった。合格すれば私の大学受験式勉強能力にはそれなりのお墨付きが与えられることになり、不合格ならば残念賞、ただそれだけのことだった。いざ合格してしまうと、やっぱり私には地元の私大が似合っているのでは、などと考えて悩んだりした。
もし現役でどこも受からなかったら美大受験に方向転換しようなんて甘いことを考えていた。自分ひとりで美術への未練を貫く勇気がなかったから不合格と浪人を味方につけようと思っていた。こっちもこっちで殺されそうな甘い考えだ。だからセンターも二次も予想外に上手くいって合格を手にしてしまったことが少し、いや、かなり残念だった。親戚や友人が褒めてくれても全然嬉しくなかったし、全部落ちればよかったのになんて馬鹿馬鹿しいことを考えて泣いたりした。
単純に「自分の能力に対する他者からの保証」が欲しかっただけなのだ。昔から「やればできる子」と褒めているのか貶しているのかわからない言葉を言われ続けてきたけれど、中学高校では部活に明け暮れひどい成績を残してきたから、きちんと努力した受験レースで第三者から評価されることで安心したかった。合格発表後の私が取りうるもう一つの選択肢は「合格を蹴って浪人する」だったのかもしれない。けれどそんなことをしようとしても周りの理解は得られないことはわかっていたし、気力もなかったので、私は口を噤んでこの土地に来た。
結果、わりと後悔している。毎日はそれなりに楽しかったり辛かったりしてちゃんと生きている感触はあるし、絶望的だった家事能力が一人暮らしのおかげで半絶望的レベルまでは上がったけれど、後悔している。心が弱ったとき、「なんで私はこんな所にいるんだろう」という考えが襲ってくる。一般教養がつまらないとか単位のための勉強の張合いのなさとかは、もし自分でやりたいことのために決断した結果なら、そのことを支えに耐えられるのだと思う。自分の決断というものをこの歳になるまでしてこなかった自分が情けない。
自分で自分の将来を選択して、自分で選んだ道だということを支えにして生きることができている世の中の人、偉すぎませんか。私が弱すぎるのか。
さてこれからどうしていこうかな。
こんなことを言うと反感を買いそうだけれど、私にとってこの受験は力試しみたいなもので、目的は入学試験であって入った先の大学生活ではなかった。合格すれば私の大学受験式勉強能力にはそれなりのお墨付きが与えられることになり、不合格ならば残念賞、ただそれだけのことだった。いざ合格してしまうと、やっぱり私には地元の私大が似合っているのでは、などと考えて悩んだりした。
もし現役でどこも受からなかったら美大受験に方向転換しようなんて甘いことを考えていた。自分ひとりで美術への未練を貫く勇気がなかったから不合格と浪人を味方につけようと思っていた。こっちもこっちで殺されそうな甘い考えだ。だからセンターも二次も予想外に上手くいって合格を手にしてしまったことが少し、いや、かなり残念だった。親戚や友人が褒めてくれても全然嬉しくなかったし、全部落ちればよかったのになんて馬鹿馬鹿しいことを考えて泣いたりした。
単純に「自分の能力に対する他者からの保証」が欲しかっただけなのだ。昔から「やればできる子」と褒めているのか貶しているのかわからない言葉を言われ続けてきたけれど、中学高校では部活に明け暮れひどい成績を残してきたから、きちんと努力した受験レースで第三者から評価されることで安心したかった。合格発表後の私が取りうるもう一つの選択肢は「合格を蹴って浪人する」だったのかもしれない。けれどそんなことをしようとしても周りの理解は得られないことはわかっていたし、気力もなかったので、私は口を噤んでこの土地に来た。
結果、わりと後悔している。毎日はそれなりに楽しかったり辛かったりしてちゃんと生きている感触はあるし、絶望的だった家事能力が一人暮らしのおかげで半絶望的レベルまでは上がったけれど、後悔している。心が弱ったとき、「なんで私はこんな所にいるんだろう」という考えが襲ってくる。一般教養がつまらないとか単位のための勉強の張合いのなさとかは、もし自分でやりたいことのために決断した結果なら、そのことを支えに耐えられるのだと思う。自分の決断というものをこの歳になるまでしてこなかった自分が情けない。
自分で自分の将来を選択して、自分で選んだ道だということを支えにして生きることができている世の中の人、偉すぎませんか。私が弱すぎるのか。
さてこれからどうしていこうかな。
2017年2月21日火曜日
思い出の不確かさ
昔父親が毎年買ってきていた芥川賞受賞作品掲載号の文藝春秋を、目次から広告まで舐めるように、活字を消費するように読むのが好きだった。夏の湿っぽくひんやりした畳の感触と、電気をつけずに障子を透して日光が差し込む緑がかった和室の空気を思い出す。
好きだったというよりも、今になって懐かしく思い出すという感じだ。当時の私にとっては、他にやることもないので仕方なく過ごしている日常の一部に過ぎなかった。
何年か後になったら今の生活も、こんなふうに色付けされた思い出に変わるのだろうか。喉元過ぎれば熱さを忘れ、本当につらかったことでも数年経てば甘美な思い出に変色してしまう私の頭は、呪わしいのか喜ばしいのかわからない。
たとえば「母校が好きだ」と言う時の私は、不純な思い出に支配されている。
「母校は好きではなかった」と言える人は、過ぎ去った辛さの新鮮味を失わずに持ち続けている。
努めて本当のことを言うならば、在学中は母校を好きでも嫌いでもなかった。おそらく。授業はこなすものだった。テストの点にそこまで関心は払わなかった。好きな教師も嫌いな教師もいたけれど、どうでもいい人が大半だった。クラスメイトも同じ。部活は辛いけれど唯一の居場所だった。
それくらい。
それくらいの、可も不可もない生活は、思い出フィルターを通せば簡単に「好き」に変換されてしまう。ざらついた生の感情が失われて、変にすべすべした他人事みたいになってしまう。
青山七恵のあの小説、なんという題名だったっけね。
好きだったというよりも、今になって懐かしく思い出すという感じだ。当時の私にとっては、他にやることもないので仕方なく過ごしている日常の一部に過ぎなかった。
何年か後になったら今の生活も、こんなふうに色付けされた思い出に変わるのだろうか。喉元過ぎれば熱さを忘れ、本当につらかったことでも数年経てば甘美な思い出に変色してしまう私の頭は、呪わしいのか喜ばしいのかわからない。
たとえば「母校が好きだ」と言う時の私は、不純な思い出に支配されている。
「母校は好きではなかった」と言える人は、過ぎ去った辛さの新鮮味を失わずに持ち続けている。
努めて本当のことを言うならば、在学中は母校を好きでも嫌いでもなかった。おそらく。授業はこなすものだった。テストの点にそこまで関心は払わなかった。好きな教師も嫌いな教師もいたけれど、どうでもいい人が大半だった。クラスメイトも同じ。部活は辛いけれど唯一の居場所だった。
それくらい。
それくらいの、可も不可もない生活は、思い出フィルターを通せば簡単に「好き」に変換されてしまう。ざらついた生の感情が失われて、変にすべすべした他人事みたいになってしまう。
青山七恵のあの小説、なんという題名だったっけね。
2017年2月5日日曜日
東京バラード、それから
うつくしい音楽に出会ったときは、私がいかに打ちのめされたかを言葉にして綴ることができる。言葉と音楽とは違う次元に属するので、思慮も何もあったものではない文章を安心して書き連ねることができる。
小説もそれが許される。たかが数行の感想文で汚されるものではないと確信できるので。
詩はそれが許されない。という気がする。どんなに短く奔放でも詩は詩として成り立ってしまうので。すばらしく美しく残酷に言葉をひらめかす詩に出会ってしまったとき、私は下手に感想を表出することができなくて硬直する。吸ったばかりの神聖な空気に不純物を混じらせて濁った息を吐き出すよりは、そのまま呼吸を止めてしまいたいような気がして。
という、ここまでの文章が感想です。谷川俊太郎すげえなあ。
小説もそれが許される。たかが数行の感想文で汚されるものではないと確信できるので。
詩はそれが許されない。という気がする。どんなに短く奔放でも詩は詩として成り立ってしまうので。すばらしく美しく残酷に言葉をひらめかす詩に出会ってしまったとき、私は下手に感想を表出することができなくて硬直する。吸ったばかりの神聖な空気に不純物を混じらせて濁った息を吐き出すよりは、そのまま呼吸を止めてしまいたいような気がして。
という、ここまでの文章が感想です。谷川俊太郎すげえなあ。
2017年2月2日木曜日
フラニーとズーイ
フラニーとズーイを読み終わる。予想以上に宗教的な話だった。そして生きることについて。観念的ではなくて具体的に生活をするということについて。
つまり、周囲の人間がどれほど愚かしく見えたとしても、それを罵倒したり嘆いたりしながら自分だけは理想的な世界に逃避しようとするのではなく、自分自身とキリストだけのために完璧な演技(生きること)をしろ、ということなのか。確かに全てが相対化されようとする最近の社会では、こういった絶対的な信念が拠り所になると思う。
フラニーとズーイは並外れた知能と特殊な教育のおかげで、全ての他人に対して懐疑的にいちゃもんをつけずにはいられないという憂鬱を手にしてしまった。賢いが故の苦悩ということか。こういう話が読み継がれるのは、読んだ人が自分も高等な知能を有しているような錯覚に浸れるからということもあるんだろうか。
しかし。宗教を持たない、持ったとしても唯一の神を持たない日本人であるわたしはこの話のキリストをどう読み替えればいいのだろう。
何にせよ、何かを信奉するにしても理想化した何かじゃなくてありのままの対象を見ろよ、というのはとても響く。
つまり、周囲の人間がどれほど愚かしく見えたとしても、それを罵倒したり嘆いたりしながら自分だけは理想的な世界に逃避しようとするのではなく、自分自身とキリストだけのために完璧な演技(生きること)をしろ、ということなのか。確かに全てが相対化されようとする最近の社会では、こういった絶対的な信念が拠り所になると思う。
フラニーとズーイは並外れた知能と特殊な教育のおかげで、全ての他人に対して懐疑的にいちゃもんをつけずにはいられないという憂鬱を手にしてしまった。賢いが故の苦悩ということか。こういう話が読み継がれるのは、読んだ人が自分も高等な知能を有しているような錯覚に浸れるからということもあるんだろうか。
しかし。宗教を持たない、持ったとしても唯一の神を持たない日本人であるわたしはこの話のキリストをどう読み替えればいいのだろう。
何にせよ、何かを信奉するにしても理想化した何かじゃなくてありのままの対象を見ろよ、というのはとても響く。
2017年1月29日日曜日
yume
1/23
女の子に腕を取られ「このまま一人同士だったらずっと一緒にいようね」なんて言われる夢を見た。
暗い密室で暗号を解いたとたんそれが合図となってがらがらと天井が崩れ、それが静まった後で瓦礫の隙間からこぼれる光に向かって二人歩きながら。
頷いたかどうか忘れた。
何の暗示なんだ。女の子って誰だ。
女の子に腕を取られ「このまま一人同士だったらずっと一緒にいようね」なんて言われる夢を見た。
暗い密室で暗号を解いたとたんそれが合図となってがらがらと天井が崩れ、それが静まった後で瓦礫の隙間からこぼれる光に向かって二人歩きながら。
頷いたかどうか忘れた。
何の暗示なんだ。女の子って誰だ。
2017年1月19日木曜日
昔のそれこそ中2か中3位の頃のブログを発掘してみたらなんか本当に痛いくらい思春期していて胸が苦しくなってしまった。
あの頃は本当に学校と家が世界の全てで、その中でも部活が9割5分を占めていたね。
自分の能力のなさに死にたくなってでも本当に死にたいわけではなくてただ現状を変えられないもどかしさを綴った翌日の記事が、憎らしさと好意の入り混じった同輩への感情だったりした。
昔の自分が当時の気持ちを文章に残していなければ、こうして思い出すこともなかっただろう、でも死ぬほど大切な私の一部だ。
自分は本当に目に見えない速度で静かに静かに変わってしまったんだなと感じる。綺麗なものも汚いものも織り混ざった宝石みたいな過去を段々褪せていく思い出として再生するしかできないのは寂しい、けれど思い出せないのはもっと悲しい。鼻先をくすぐるプールの塩素の匂いみたいに、純粋さのほんの片鱗だけでもなくさないでいられますようにと願ってみる。
あの頃は本当に学校と家が世界の全てで、その中でも部活が9割5分を占めていたね。
自分の能力のなさに死にたくなってでも本当に死にたいわけではなくてただ現状を変えられないもどかしさを綴った翌日の記事が、憎らしさと好意の入り混じった同輩への感情だったりした。
昔の自分が当時の気持ちを文章に残していなければ、こうして思い出すこともなかっただろう、でも死ぬほど大切な私の一部だ。
自分は本当に目に見えない速度で静かに静かに変わってしまったんだなと感じる。綺麗なものも汚いものも織り混ざった宝石みたいな過去を段々褪せていく思い出として再生するしかできないのは寂しい、けれど思い出せないのはもっと悲しい。鼻先をくすぐるプールの塩素の匂いみたいに、純粋さのほんの片鱗だけでもなくさないでいられますようにと願ってみる。
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