まっ赤なハイヒールがほしい。まっ赤なハイヒールを買うべきだ。という啓示が降りてきたのでまっ赤なハイヒールを探す。ハイヒールは元来苦手なのだ。腰が弱くて、4㎝のかかとで2時間も歩けば気がくじける。だけど啓示が下されたので従うよりほかない。6㎝か7㎝の気高い見かけをしていて、綺麗めにもぼろぼろのジーンズにも合わせられるやつ。いつか、いつかね。
自己愛を飼い慣らしている人が好きなのだと思う。愛すべきナルシシスト。自己陶酔の中をくるくると旋回しながら踊り続けた末に二本の脚を絡ませて倒れる。息を弾ませて。自分の吐いた息で充満した密室の中で深呼吸をする。はるか遠くを見ているようで、実は自分の内部の暗がりだけに注がれているまなざし。
この選好は私自身の自己愛の拡張なのか、自己愛者になりきれない私が他者に対して抱くあこがれなのか、よくわからない。摩擦が起きない程度の距離を保って見ているのが双方にとって幸福なのかもしれない。そうやって他人を観察対象の地位に置いておくことで私は心を平穏に保っていることができる。鏡のように。静かな湖面のように。それはとてもとても寂しいこと。心をみだされることに不慣れだから、そのたびごとにジェットコースターが山を下るときくらいの衝撃を被る。心臓が止まりそうになる。死に近づく。だから、ヤドリギのような執着をひきはがす。寝ても覚めても鉄の味。心臓の裏に絡んで締めあげる蔦。そのうちに薄くやわらかい膜が張る。触れると鈍くて甘いいたみ。傷口を大切にホルマリンに漬けて標本化する。よかった。難破せずに済んだ。なまの花束を放っておくと案外きれいにドライフラワーになる。海辺で火をつけたらよく燃えるだろう。
何も考えていないのだ、何も考えていないことを直視しないためにキーを打っている。言葉という玩具を持っていられることに感謝する。
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東京でしかやらない芝居が観たい。ダンスが観たい。ライブやコンサートにももっと気軽に足を運びたい。ということは東京で就職するべきなのだろうか。やはり。
進路について迷いに迷っていてそろそろ回線がショートする。以前はとりあえず修士に進もうかと思っていたけど動機がとりあえずってどうなの。と自分で突っ込みを入れてしまった。博士に進むつもりは、ない。多分。いったん社会に出てみてもう一度学問をやりたくなったら院に戻るのがいいかもしれない。そう言っていた知人もいる。どこにも正解はない。正解がないなかで選択をする。
学部の先輩たちがシュウショクカツドウの経験談をおはなししてくれますよ、という会に行ってきた。熱量はさまざまだった。個人の体験はどこまでいっても一般化不可能なものだから、参考になったかといわれればあまりならなかった。シュウショクカツドウとは世俗化された社会における通過儀礼のようなものなのか。一定の年齢に達した者は労働市場の名のもとで雑多な評価軸に身をさらす。どうやらそういうことになっているらしいのだ。
心理学のどこが好きなのか、なぜ選んだのかと問われれば、人間の内面に興味があったから、と答えるのだろうか。違う。興味があったのは自分の内面だけだ。自分の心を御していくやりかたがわからずにくるしんでいただけだ。だけどわたしの専攻は臨床ではない。実験心理学をやる理由は、心を扱いながらも科学的な手法をとることで心の曖昧な領域に触れずに済むからか。それは当たっている。心の曖昧な領域は時として凶器になる。わたしは何よりも我が身が可愛い。最低限より多くは傷つきたくない。
心理学と社会学の違いは、人間の行動の原因を個人の内部に求めるか社会構造に求めるかの違いであるという。わたしはもう社会なんてどうでもよくなりかけている。部屋にテレビはない。新聞も取っていない。集団としての人間の行動レベルでの傾向にもとくに興味はない。
人の思考の流れとか、目に見えないものについて考えたい。だから認知心理学になる。言葉が好きだ。となると言語心理学か認知言語学か。なんだかもうよくわからなくなっている。
『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んだ。『分析哲学講義』と『功利主義入門』を昨日買った。その前の日はサガンの『悲しみよこんにちは』を買った。その前には谷崎の『蓼食う虫』と穂村弘のエッセイを買った。さらに前には岩倉文也の詩集を買った。売野機子の漫画をまとめて数冊買った。『手紙読本』と『朗読者』を買った。三島由紀夫とメルロ=ポンティとシモーヌ・ヴェイユを買った。節操がない。ほんとうにどうかしている。どうかしていないと生きていられない。どうやらそういうことになっているらしいのだ。