体重と部屋の無秩序と心の安寧を少しずつ失った秋だった。それ自体は結構なことだ。歓迎すべきことかもしれない。家具の配置を変えたのでベッドの上から映画を見られるようになった。惜しむらくは映画鑑賞用デスクトップを置いている机が目線の高さより低いこと。
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花と暮らしている。自分のためではなく花のために空間を整え、生活を保つ。この部屋の主人は花弁の縁が黄ばんだ散りかけのばらで、わたしは彼らに仕える小間使いだ。おやすみ、おはよう、いってきます、ただいま、胸の内で唱えながら花に顔をうずめる。心に波が立ちそうになるとそこに目をやる。小さなアジール、聖域。たとえそれが人間のエゴによって半分殺されているにひとしい切り花であっても、わたしはただ自分のために花を愛する。
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執行猶予申請書類を手に入れた。3月までに心を決めなければならない。春休みにはフランスへ行こうと思っている。
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弾丸帰省の往路で村上訳の『フラニーとズーイ』を読み直した。以前読んだ時には小気味よく感じられたはずの会話が、今はひたすらに重く疲れさせるものに見えた。「バナナフィッシュにうってつけの日」で長兄シーモア・グラスが自殺を遂げてから7年後のグラス家、末弟ズーイとその妹フラニーの物語だ。フラニーは大学に氾濫する「教養」がすべて無価値なものに見えるといって宗教実践に救いを求めたすえ、神経を衰弱させて実家へ帰ってくる。対してズーイは、教養のくだらなさについては数少ない具体例を過剰に一般化して嘆いているだけであって、宗教にしても彼女は聖人を本当に理解しているのではなく、雑多な「善い」人格のごった煮でできた都合のいい人格を当てはめて信仰しているにすぎない、と諭す。彼は不純な信仰をやめろとは言わない。自己欺瞞はそれ自体としては悪いことではない。しかし、それによって見落としているものに目を向けよ、と言う。たとえば母親が彼女を心配して運んでくるチキン・スープ。
サリンジャーは精神分析をずいぶんこき下ろしている。自殺したシーモアにも分析医は有効な手立てを施しえなかった。ズーイ曰く、頭脳のつくりが単純な人間に限っては精神分析の解釈によって幸せになることができるかもしれないが、高等な頭脳の持ち主には底の浅さが見え透いているということらしい。50年代アメリカの中産階級において精神分析はかなりカジュアルな選択肢であったことが窺えるけれど、普及とはすなわち大衆化、陳腐化でもあるのだろう。
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三島由紀夫の『音楽』を読んだ。65年刊行、精神分析医の手記という体裁をとっている。これは精神分析をアクセサリーかスパイスのようにいいかげんに散りばめたよくある話ではなく、かなり真剣にテーマの中心に据えた小説だなと思う。巻末に参考文献まで載っていて、語り手の分析家はビンスワンガーの現存在分析に依拠している。ところどころに三島の精神分析観があらわれているようで興味深いけれど、三島自身は精神分析の否定論者であったらしい。精神分析的な言葉の力が現実の局面の持つ力に敗北する過程の物語とも言えるのだけれど、人間がいかに想像を超えた複雑な存在でありうるかということを思い出させてくれるスリリングな話だ。
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