夜中、大学の地下で冷蔵庫と対話しながら、今日の朝から読み始めていたオースターの『ムーン・パレス』を読み終える。誰もいない部屋でこちらが深く息をついたあと一瞬の間をおいて冷蔵庫が唸りを発しはじめると、あ、今返事をくれた、と思う。以下太字引用。
いろんなことを考えすぎた、本を読みすぎた若者の情熱と理想主義とに導かれて、僕は、自分がなすべき何かとは何もしないことである、という結論に達した。僕のなすべき行為とは、いかなる行為も戦闘的に拒絶するという行為なのだ。いってみれば、美的次元まで高められたニヒリズム。僕はわが人生を一個の芸術作品に仕立て上げるのだ。
「君は夢想家だからなあ」と彼は言った。「君の心は月に行ってしまっておる。たぶんこれからもずっとそうだろう。君には野心というものがないし、金にもまるで興味がない。芸術に入れ込むには哲学者すぎる。どうしたものかなあ。君には面倒を見てくれる人間が必要なんだ。腹にちゃんと食い物が入って、ポケットに何がしかの金があるよう気をつけてくれる人間が必要なんだ。わしがいなくなったら、君はまた元に戻ってしまうだろう」
すべては結びつきの欠如と、タイミングの悪さと、無知ゆえの盲動の結果だったのだ。僕らはつねに間違った時間にしかるべき場所にいて、しかるべき時間に間違った場所にいて、つねにあと一歩のところでたがいを見出しそこない、ほんのわずかのずれゆえに状況全体を見通しそこねていたのだ。
「何を見ても何かを思い出す」というヘミングウェイのまだ読んでいない短編のタイトルが急に思い浮かんで、その通りだなと思う。凡そ記憶を喚起しない事物というものが身の周りから少なくなりつつある。それはなんだか親しみに満ちた柔らかな牢獄のようだ。何も思い出さないものを見に行かなくてはならない。
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