2018年11月17日土曜日

今週の映画

 『ピアノ・レッスン』美しくて淫らで残酷で、手に汗握って見てしまった。青みがかった画面が綺麗でいい。浜辺でピアノを弾く場面が好きだ。声を失った彼女は愁いを帯びて魅力的で、禁欲的な色気を感じさせる。余計なことばかり口走って後悔するくらいなら私も口がきけない人間であればよかった、と思ってしまう。聞く価値のあるおしゃべりなんて本当に少ないのだから。それにしても彼女の子供と夫はなんて残酷なのだろう。愛の前には皆等しく残酷になるのかもしれない、しかし本当にそうだろうか。身勝手な執着や裏切られた悲しみと怒りや手に入らない対象への憧憬や、そのほか種々雑多なものが愛の名のもとに押し込められているのではないのか。男が愛したのが彼女の沈黙そのものや、沈黙によって守られているように見える未知なる領域であったとしたら、ピアノとともに自分の中の沈黙を殺してしまった彼女に対してもその愛は続くだろうか。などと考えてしまうのは野暮なのだろうな。
"Girl, Interrupted"、邦題『17歳のカルテ』を見たのは通算2度目か3度目か。主人公はアスピリンとウォッカを1瓶ずつ飲んで搬送され、世間体を気にする両親によって精神病院に入院させられる。張り詰めた糸がいつ切れるか、いつ誰が激昂して泣き出すか。不安定で痛々しくて、それでも不思議と軽やかで痛快で愛おしくて、好きな映画だ。ハイティーンの女の子の心の揺らぎの結晶のような作品。私は病名をつけられたことはないし、思春期を過ぎた今はもうこの女の子たちみたいに実際に泣き叫んだりはしないけれど、泣き叫びたい気持ちはまだ残っているのだと思う。でなければこの映画を見ることで抉られる心の痛みを快く感じるはずがない。中断された、さえぎられた少女。
 『マトリックス』で地下上映会をした。夏の集中講義で別々の先生が異口同音に勧めていたのでずっと見たいと思っていた。現実だと思っていたのは実は意識が見ているバーチャル世界の夢だった、というような構造なのだけれど、仮想世界で意識が命を落とすと現実世界の肉体の心臓も止まるのが面白い。アバターが死んでも何度も生き返るゲームとは違って、ここでの意識と肉体はどちらが欠けても成り立たない不可分なものらしいのだ。夢での死と現実の死、意識の死と肉体の死が等号で結ばれる。しかしそれなら命の本体はどこにあるのだろう?やたら決めポーズの多い格闘シーンは笑いどころ。
 『天使の涙』、原題『堕落天使』。ウォン・カーウァイの映画に出てくる女性たちはすましていて感情が読み取れないか、極端に無邪気で感情に素直かの両極端のような気がする。あるいは言語の特徴がそう見せるのだろうか。広東語の響きは日本語とは違った種類の強引さを感じさせる。話の筋らしい筋はほとんどなく、軽薄で色鮮やかでお洒落。よい雰囲気ものだった。


数週間前まで映画や小説をまったく受け付けない状態だったのに、今はとりつかれたように物語を摂取している。そういう時期なのだろうと思う。

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