2020年11月20日金曜日
2020年11月3日火曜日
夢が覚めたら
西加奈子の『白いしるし』を読みはじめてすぐ胃のあたりがざわざわしてきてこれはやばい本だと確信したし、それは当たっていた。こんな作品が存在していていいのだろうかと本気で思いながらインターバルを挟んで、読んで、読み終わる。誠実な小説だ、と思う。取るに足らないものだと思っていた、取るに足らないものであるふりをしなければいけないと思っていた、だからそうした。そうやって不本意に埋葬してきた私の一部がこの作品に救われたように思った。身勝手な投影だとはわかっていても、心の芯に直接触れてくる作品とひさしぶりに出会えて嬉しい。この小説の、芸術と人のとらえかたが好きだと思う。作品と人格は切り離せないけれど、人格を超えて届く作品もある。評価に混ざる私情を悪と断じるのではなく、「あなたはただ、何かを選んで、何かを選ばなかったことに、自身で責任を負わなければいけない。」他者がきちんと他者として描かれた小説が好きだと思う。予測のつかない動きをする、自分とは違う人格と思考と過去を備えている、必死に推し量ろうとしても最後まで理解することができない、実体に触れることすらできない向こう岸の存在として描いている小説が好きだと思う。正しく絶望することで正しく前を向くことができる。
夢が覚めたら壊れてしまえよ、そのまま夢でいるなら溢れてしまえよ、と歌う音楽をずっと聴いている。
道をただ道なりになぞる
気温が下がると食欲の解像度が下がる。自分が何を食べたいのかわからないし、かといって適当なものを選んで食べても何か選択を間違ったような気持ちになる。ディストピア飯の日替わりプレートがランチとディナーに自動配給されるのであったらいいなあ。と思う。繊細な味覚の悦びから疎外されているのでカロリーメイトが主食でもそれなりにハッピーに過ごせる。夏の終わりには取り憑かれたように料理をしていたけれど案の定すぐに立ち消えた。食の優先順位が著しく低い。月末あまりにもお金がなくて一週間冷凍のスープ餃子と春雨で過ごしたけれど案外耐えられてしまって、まだ続けようとしている。削れるだけ食費を削りたい。
下宿暮らしともなれば契約更新ごとに引っ越しを繰り返す人も少なくないけれど、私は5年にわたって同じ部屋に住み続けている。建物、部屋そのものには色々と不満があるけれど荷物が増えて億劫だったのと、結局立地が最強なので引っ越す理由が見当たらなかった。駅と大学が遠いのはネックだけれど徒歩3分圏にコンビニとスーパーとドラッグストアがあって、深夜にだって買い物に行ける。もう少し足を伸ばせばコンパクトながら品揃えは悪くない本屋があるし、家電量販店も服屋も画材屋もある。生活拠点としては恵まれすぎている。それで日が落ちたころに散歩に出るとついつい近くの本屋へ行って本を買う、ということを繰り返していたらクレカの支払いがやばいことになって流石に反省し、新しい本はなるべく1割引になる大学生協で、在庫がなければ注文して買うことにした。あと図書館を使おう。とりあえず前から気になっていた2冊を予約する。計画的な消費はつまらないね。計画的な浪費ならしてみたいかもしれない。最近寝起きに疲れていることが多いので、いいマットレスの価格帯が知りたくて調べていた。有名なメーカーのエントリーモデル(っていうのかなマットレスでも)が大体20万前後で、それで以後何年間もの安らかな眠りが手に入るのなら減価償却で考えれば安いものでは?と思ってしまったのでお金を得られるようになったら将来的に導入を検討したい。マットレスと椅子は大事。
2020年11月2日月曜日
日々を諦めない
ちょっと現実がつらいのでひたすら趣味の話をしたい。People In The Boxを好きな知り合いと会う予定がたったのでそれを心の支えに日々をこなす。前に会ったときこの人は『空気人形』が大好きだと言っていて、私はまだ観ていなかったので話題はすぐに流れてしまったのだけれど、今度はいろいろ話したいことがある。いくつかの伏線が繋がった気がしている。波多野さんの好きな作家はピンチョン、ボルヘス、エリクソンであるという真偽の定かでない数年前の情報を目にしたので暇ができたら読んでゆきたい。去年の文芸誌での対談を読みなおすと、ピンチョンの『V.』とリチャード・パワーズが挙げられていた。ずっと彼らの曲には外国の街並みの風景を重ねて聴いていたので海外文学好きなのはわかるけれど、現代アメリカ文学というところはすこし意外に思う。色彩の統一されたヨーロッパの都市のイメージを抱いていた。ああでもたしかに伝統よりは前衛志向だろうか。国内でいうと多和田葉子が近いと思っている。ひさしぶりに有村竜太朗のソロワークを聴き返す。ときおり放り込まれる殺傷力の高い言葉が、手なずけられた虚構のなかに不意に現れる底の見えない裂け目のようだと思う。匿名的な共感というよりは、ある人生に紐付いた固有の想念への共振を否応なく迫ってくるような声だと思う。しかしプラスティックトゥリーのひねくれぐあいからするとソロのバンドは比較的素直な演奏をするね。フロントマンがソロをやり出したことで逆に元のバンドの特徴が見えてきたというか、今まで魅せられてきたものはこんな変な形をしていたのかと気づかされたところがある。いつのまにか歪さを求めるように慣らされていた。ところで近頃目に見えて会話が下手になっていてこまる。うまいことチューニングを合わせていきたい。西加奈子を読む。めっきり冷え込んできて、素足で歩くとよく冷えたフローリングに吸い込まれそうになる。床暖房がほしい。ふわふわのスヌードをかぶって寝る。
2020年10月30日金曜日
あるいは懐疑としての愛
時間軸上のすべての自分は他人であると思えば、書かれた日記は未来の自分に対して過去の自分がかつて存在したことを証明する痕跡となる。今の私が存在するためには過去の私を捨てねばならなかった。未来の私も今の私を捨てるだろう。ためらいもなく。私たちは同時に存在することができない。活動の動機を問われて、この世界に何かを残したかったから、とたくさんのひとが答える。それは通常自分が死んだ後の人々にも認識される何かを残したい、あるいは他人に自分の価値を認めてもらいたいという意味で理解される。わからなくはないけれど、どことなく切実さを欠いた悠長な願望に見えることもある。「何かを残したい」という言葉は、未来の自分に対して瞬間ごとに失われてしまう今の自分を残したい、という意味にも取れる。その方がふさわしいのではないかと考える。ふと立ち止まって後ろを振り返ると、歩いてきたはずの道が立つ足のすぐ後ろで消え去っている。あるいは霧がかかったように過去を見通せない。自己同一性を支えていると思っていた一貫した完全な記憶なんてどこにもない。途端に足場がぐらつき、梯子を外されたような不安に襲われる。生きていて、今の自分がなぜ自分であるのかがわからなくなること以上のこわさはない。恐怖を予期して、今の自分が何を思い何を感じているかを、他人である未来の自分にもわかるように形にせずにはいられない。そういうことであれば、「何かを残したい」衝動は生きるために常に切実なものになるかもしれない。私たちは同時に存在することができない。己の屍を栄養として育つ。
結局はこういう文章もそれに似た動機で書いているのだろうと思う。データが失われたときに備えて定期的に人格のバックアップを取っておく。たぶん私は自分の意識というものを根本的に信用していない、おそらくは理性のことも。信用していないものばかりに惹かれてしまう性向がある。いつ裏切られるだろうとはらはらして愛おしい。
2020年10月29日木曜日
20201029
いつもいつも、忘れたい記憶ばかりが蓄積されていく。忘れたくない記憶ほど、記憶の中で歪んでいく。悲しみは何故こうも鋭利に突き刺さり、原型をとどめたまま皮膚から抜け出ないのだろう。人間の体に入り込んだガラスだって、時が経てばいつかぽろりと抜け落ちるものなのに。何故人の悲しみは、ただれた傷のように人を苦しめ続ける。私は体中がただれていて、永遠にこの傷が治らないことを知りながらそれでも尚傷を広げ続けていくしか選択肢がない。いつになったら悲しみから解放されるのか。人生とは永遠に憂鬱なのだろうか。何故常に憂鬱がつきまとい、憂鬱に悩まされ続けるのか。これまでの人生、私は誰からも愛された事はなかったかもしれない。でもこれだけは言える。私は憂鬱に愛された女だ。憂鬱だけが私を愛し私を唯一のパートナーと認め私との生活を望み私との肉体的精神的繋がりを求め私にプロポーズをし君との子供が欲しいと言ってくれた。憂鬱だけは絶対に、私を見捨てない。(金原ひとみ『憂鬱たち』)
すこし前に読んだ『憂鬱たち』の主人公の世界に相対する姿はあくまで切実で、悲しいまでの切実さが空回って痣だらけになってシニカルな笑みを切れぎれに浮かべているような、どうにも素通りできない人物造形だった。
対面ライブへの渇望をCOVID-19発生以後ようやく身をもって体感している。何度か観た配信ライブはそれはそれで良かったけれど、会場のざわめき、客電が落ちる瞬間の緊張と高揚、息をひそめて演者の登場を待つ時間、舞台上の彼らが本当に自分と地続きの空間に存在していることをその目で確かめる感動、さまざまな経路で同じ芸術に魅せられここに辿り着いた大勢の観衆の中のひとりであるという感覚、そのどれも画面越しには味わうことができない。好きなバンドはわりと単発で対面もやっているので行こうと思えば行けなくはないのだけれど、高速バスで遠征はさすがに怖いなとびびっている。そういえばGRAPEVINEは対面で秋ツアーやるらしいわね。いいな。
卒論は弱音を吐きに吐きまくっている。提出できないよりは人に頼った方がマシという方針の下、できていないならできていない現状を報告する。報告連絡相談。この世に相談という概念が存在して本当に良かった、なかったらとっくに自滅している。卒論からの逃避として今読んでいるのはグレッグ・イーガンの『順列都市』、人間が自らをスキャンして生成したソフトウェアの分身をコンピュータ上で生かすことが可能になった近未来。肉体が死んだ後もソフトウェアの「コピー」を半永久的に存続させるためにはもちろん物理世界のコンピュータを動かすための金が要る。世知辛い。逃避その2を兼ねて情報処理資格の勉強を若干やっているのでモチベーションを保つのにちょうどよい。大学入試の成績開示で得意だった国語よりも数学の点数が高かった事実を、世の中の平均と比べれば自分に数学のセンスがないわけではないだろうという楽観の根拠にしている。実際はどうだろうね。でも仕事で行き詰まるとしたら技術関連ではなくコミュニケーション関連だという予感がすでにある。ふつうのひとは世間話にうつむいて言葉を選んだりはしない。
2020年10月7日水曜日
囲い込み
前期はつらくて仕方がなかったオンライン授業が下宿に戻って後期が始まってみるとすこぶる快適に感じられ、つらくて仕方がなかったのは講義のオンライン化ではなく実家の環境であったことがわかって静かに微笑んでいる。就職して一時的に戻ってくるとしてもずっとこの家にいる気はないよと私が至極当たり前のことを言うと少し傷ついたような顔をする母が可笑しい。ずっとこの家にいたいなどと娘が口にしたらそれは少し病的だと思う。そういえば配属地域の希望は特に出さなかったので首都圏以外になる可能性もなくはない。ちょっと期待している。一人暮らしを始めて以来他人の生活音にひどく敏感になってしまった。この分ではこのさき人と一緒に住むことも難しいかもしれない。ルームシェアやシェアハウスには憧れがあるけれど、いつか実現できるだろうか。そもそも私は生活を共にできるほど人と仲良くなれるのだろうか。
ちょこちょこと買い集めていたチェンソーマンの既刊が揃ってしまった。少年漫画に疎いのでジャンプコミックスを買うことなどほとんどないのだけれど、この作者の描く高圧的で美しい女性キャラクター、頭をからっぽにして読めるスピード感が大変好みで見事に射抜かれている。藤本タツキの漫画はタランティーノっぽいですよねと後輩である友人が言っていて、パルプフィクションしか観たことのない私はその真意を汲み取れなかったのだけれど、Twitterを見ていても類似の意見があったのでわかる人にはわかるのだろうなと思う。藤本タツキの前作ファイアパンチもそうだけど、作者の好きなものが歪曲しないで素直に表れている作品は見ていて清々しい。
卒論の準備は一人でやっているとどうしても後回しにしてしまうので、関係各所に報告連絡相談をなるべくきっちりやることで退路を断っている。囲い込み作戦だ。正直こんなゆるふわな計画で遂行できるのか? とも思うけれど、手を動かさないことには何も始まらないのでやるしかない。やってみて失敗したらそれは仕方がないし、失敗の記録として真面目に論文を書けば卒業くらいは許してもらえるはずだと思っている。現実を直視して着手することが何よりも大切。
2020年9月30日水曜日
とげとげつめあわせ
内定先に所用でメールをしたのだけれど数日経っても返信がないので昼過ぎに仕方なく電話をし、折り返し連絡しますと言われてから業務時間の終わりまであと10分を指す時計を見つめながら電話を待っている。向こうの伝達が遅れているのか、あるいはテレワークの勤務体系では業務時間もフレキシブルに変化するのかもしれない。何時までには折り返すという区切りを確認しておけばよかったと思う。電話は苦手だ。思い返せば内定連絡の電話も業務時間外に来た気がする。そもそも最初に送ったメールは読まれているのだろうか。こういうことがあると会社のバックオフィスがスムーズに機能していないのではないかと心配になる。
院に進んだ知人から、就職先は決まったのか、と問われる。決まったんじゃなくて決めたんです。進路は自動的に決まるわけではない。自分の意思で決めなければ永遠に決まらないし、永遠に決まらないことを選ぶことだってできる。そういう選択肢の中で私は決めることにした。理想的な選択ではないとしても、働かなくては生きていけない身分だから、そして他に情熱を燃やせる対象も持たないから、決断せざるをえなかった。就職活動を本格的に経験してもいない人が、私と違って執着できる研究対象に出会えた幸運な人が、それを「決まった」などという他人任せな言葉の軽さで形容しないでほしい。その言葉の違いがわからないなら私に話しかけるな。名の知れた良い企業に入ることが当たり前であるかのような態度を取るな。その過程で必要とされる個々人の資質と努力をまるっきり無視したような、そこから零れ落ちる存在を知らないかのような、自分が強者の集団に属していることに気づいていないかのような態度を取るな。おまえもいつでも弱者になりうることを忘れるな。虫の居所が悪いと以上のような返答をしそうになる。というか冒頭まで出かかった。
二次面接を担当してくれた、フリーランスから中途入社したという社員の人が、エレベーターホールまで私を送ってくれた後に扉が閉まるまで深々とお辞儀をしていた姿が忘れられない。これが大人として働くということかと思った。その人より一回り以上若くて経験もない、どう考えてもそんなお辞儀に釣り合わないただの大学生である私に、たとえ形式的なものだとしても、体を張って敬意を表すということ。心苦しくて、同時に身が引き締まる思いがした。そのことをずっと反芻している。そこから自分がどういう意味を引き出せるのか、ずっと考えている。
私はあまり長生きをしたくないけれど、本人の意思と無関係に続いてしまうのが命というものだ。生命維持にはお金がかかる。子供が生まれず寿命が延びるこの時代には年金もあてにならないので自力で資産を形成する必要がある。悪くするとこの先50年前後は働かなくてはならないかもしれない。そういう面白くもない、けれど考える必要のあることをこの頃は考える。 50年後に今ある組織が今の形のまま存続するとは毛頭考えていない。飽き性なこともあって、新卒就職前から転職を前提としている。私たちの世代でもぎりぎり一社に勤め上げて逃げ切れる人たちもいるのかもしれないし、公務員なら旧来の制度が維持されるかもしれない。それでも同世代で終身雇用を当然のように考えている人を見ると世界観が違うなと思ってしまう。
電話はまだかかってこない。
訳あって大学4年目を2回やっている。今年こそは卒業しなくてはならない。以前は学部と院をローテーションしながら永遠に大学に在籍し続けられたらと夢みることもあったけれど、今はそうなったら地獄だと思う。早く経済的に自立したい。自立することで自分を肯定したい。という欲望の方が大きい。大学の空間は私にとってシェルターからゆるい牢獄へと変わってしまった。大学を出た世界が新たな牢獄でしかないとしても、獄中の不文律に慣れ切ってしまうまでは新奇な刺激を楽しむことができるだろう。慣れは安心を経由して飽きへと向かう。飽きこそが私にとって最大の地獄だ。
今年こそは卒業しなければならないゆえに、今年は卒業論文を書かなくてはならない。文献を読むことは然程苦ではないはずなので、難関はデータ収集の段階にある。そこさえ通過してしまえば見通しがつく。おそらくは。
電話はまだかかってこない。
2020年7月9日木曜日
温いしあわせ
2020年5月25日月曜日
きれいな倦怠
わたしは意固地でプライドが高く着けている鎧は重くて固い。日夏は今興味本位でわたしを鎧の上からコツコツ叩いたり揺さぶったりして反応を惹き出し、わたしを楽しませ自分も楽しんでいるけれど、いずれ空穂だけを連れてどこかに行ってしまう予感がする。だから、わたしは日夏とも空穂ともいつでも離れられるように心を鍛える。生涯たった一人でも生きて行けるように心を鍛える。わたしはわたしの中に生まれるわたしを弱くするどんな感情にも欲望にも打ち勝ちたい。やがてはわたしの心は何があっても壊れないほど強く鍛えられるだろう。生涯たったひとりでも生きていけるように。何があっても壊れないほど。
ところで「男女を描いてもボーイズ・ラブ作品にあるような萌えを生み出すことができるかどうか」という一節に関してはたいへん興味がある。一般的な男女のカップルの女の方になるのはどうもしっくりこないのだけれど、身体を無視して精神の上だけでBL的な関係性というものが成立するならばわたしはぜひBLの受けになりたい。精神的な受動性と能動性の概念を心身の性別から切り離すということ、でもそれだけではない気がする。
2020年5月22日金曜日
ハードとソフト
肉体はハードウェアの仕様に過ぎない、という考えが心地よく感じられるのは、性別をはじめとする身体の分類について深く考えることを避けているからかもしれないし、心身二元論の悪しき思考回路に陥っているためかもしれない。実際問題、人格や思考の形成が身体性から影響を受けないはずがなく、特定の立場でものを考える根拠としても身体が不可欠であることはわかっている。それでもいつか、SFの読みすぎだとしても、人間が意識体だけで生きられるようになったらなんという理想だろうと思う。
円城塔の「チュートリアル」という短編のなかで以下のような一節があるのだけれど、「ロマンス」というものを斜に構えた理屈で解体するかに見える一方で素朴な憧れを排除しないアンビバレンスが円城塔の魅力ですよね。そこがナイーヴでもあるんだけどね。
男性が女性を口説いて一緒に暮らすようになりましたなんていうのは、あまりに男性側に都合のよすぎる話じゃないのか。だからここでは、彼女の方から彼を口説いて、一緒に暮らすことにしたってよいのだが、いやしかし、たまたま出会った女性と仲良くなるなんていうのは、あまりに男性側の願望に寄りすぎなのではないか。少なくとも、男女が偶然、お互いを気にいるなんてことがあったとして、そいつらはどこか抜けているのじゃないか。もっとよくお互いのことを調査検討し、正気で考えてみるべきだし、そもそもが男女という設定だって突っ込んで検討してみる余地はある。女同士じゃ、男同士じゃ駄目だったのか。この話の主人公は、また別の話の主人公とは違う方の性別で、また別の話の主人公が女性だったために男性ということになっていたのだが、これはなんだか、選択やそれに伴う責任を相手に丸投げしているようで、この話の主人公が男性であることをためらうようにみせかけながら、その実厚顔に性別を押し通しているようで、不穏な気配が漂ってくる。
実際のところ、彼が彼で彼女が彼女であるのは、話を簡単にするための都合に過ぎない。本来、彼は女性でもよく、二人の性別が異なる必然性も特になく、ただそういうデータが呼び出されたというだけの話だ。本来は、ゲームのキャラクターを好きにカスタマイズするくらいの手間で、誰もが誰もに置きかわりうるのだと説明される。〔中略〕性別だって好きにしていいし、三つや四つの性別を持つ生き物の世界のデータを読み込んでもよく、無性の生き物という手もある。この文が体現するようなレイヤーを視界にかぶせさえすれば、少なくとも主観的な世界を涼やかな方向に変えることはできるのではないかという希望がちらつく。
この肉体はたまたま与えられてしまったものであり、わたしが女である必然性は特になく、わたしが好意をいだく相手が特定の性別である必然性もこれまたなく、ほんとうはなにもかも交換可能な世界であればいいと思う。それが夢みたいな願望なのであれば、わたしは白昼夢のなかで生きてゆきたい。
敬愛するバンドことPeople In The Boxが昨年秋に出したアルバムの一曲に次のような歌詞があり、これもなかなか解釈がたのしい日本語。5行目と6行目が同じメロディーで歌われる。
薄い氷に放つ炎個人の自由な意思決定による身体の選びなおしを推奨するモードについて、皮肉を込めているようにもうけとれるし、いいぞもっとやれ、という方向にも読める。
発動した本能
不真面目だもの欲望は
『たとえ戦時下であっても』
自由に性器を交換あれ
二十二世紀の音楽はね
いつまでも終わらない
静かで巨大な
無の視る夢のようだ
2020年4月4日土曜日
泥人形
2020年2月8日土曜日
2020/02/08
『八本脚の蝶』の著者略歴を眺める。「自らの意志でこの世を去る」という書き方は自死を美化しすぎているのではないかと感じる。具体的な数字は忘れてしまったけれど、死を選ぶ人の大半は鬱病その他の精神疾患を経由している(もしかしたら厚労省の自殺統計に出ているかもしれない)。精神的に正常な状態で、あくまで理性的に意志を行使して死を選ぶ人はそれほど多くはいないはずだ。病的な不安や絶望によって死んだ人たちは、「自らの意志で選んだ」というよりは「病によって選ばされた」というほうが近いのではないか。それとも、病気と健康の線引きそのものを疑う立場からすれば、どんな状態であれ外側から見て自発的と受け取られるものはすべてその人の意志と呼ぶべきなのだろうか。著者が辿った経緯の片鱗は、日記を読み進めていけばわかるのだろうか。
この違和感を抱くのは今回に限ったことではない。あらゆる小説や詩歌についていえることだけれど、本人の自殺や夭折によって見出される芸術的価値や説得力というものをどこまで信用していいのか、私にはわからない。もし悲劇的な形で死ななければ、もはや惹句としての価値のない年齢までだらだらと生き続けてしまったならば、この人たちが見出されることはなかったのだろうか。もしそうであるならば、注目を集めたければなるべく珍しいやり方で死んだもの勝ちになってしまうではないか。それは受け入れがたいことだ。
もちろん誰もが死によって有名になるわけではないし、彼らが死後の扱われかたを想定して死んでいったとは毛頭思わない。その人たちは確かに才能のある稀有な人物で、生き続けていたとしてもおそらく大成したのだろうし、不運にもその中途で亡くなったあとで注目されただけなのだろう。とはいっても、本の帯に踊るセンセーショナルな文字はノイズのように作品自体を見る目を歪ませ、私を戸惑わせる。率直に言って、著者の死を宣伝文句に使わないでほしいとすら思う。
なぜ私がこんなにもしつこくこの問題にこだわるのかといえば、消極的選択として人生を継続している人間のひとりとして、死に対して生より大きな価値を与えたくないという個人的な思いがあるからだ。何もかも止めてしまいたくなる瞬間がいくつあってもなお、生き続けることの方に肯定的な意味を見出したいと切望しているからだ。完遂できた人は勇気があると思いこそすれ、私は自殺を肯定も否定もしない。死者に同情も共感もしない。死に付随するのは砂漠の砂の一粒が消えるのと同等の意味だけだ。自死した作家たちには、生きていてほしかった、とだけ思う。当人の苦しみを知らない赤の他人のエゴであることは承知の上で。
たとえば何らかの点で同等に稀有な人物(同等に稀有というのが実際にありうることかはわからないが)が複数人いたとして、ひとりが夭折や自死の結果として耳目を集め、残りの者は平凡に生き延びたとしよう。実際に私が知ることができたのは前者だけだったとしても、想像的には、私は後者に対してより共感するだろう。いくら死者が身軽で美しく、生存者が地を這うように醜いとしても、死んでしまったら終わりだ。無理にでもそう信じることをやめてしまったら、自分をここに引き留めている綱がすり切れていくような気がする。
2020年2月1日土曜日
2月1日(土)
いくつか気に入った部分を引用しておく。
わたしが患っているのは、あらゆるだめなもの、不完全なもの、欠陥のあるもの、こわれたものに惹かれてしまう症候群だ。わたしが興味をもつのはなんであれ、創造物のなかの過失、袋小路。なんらかの理由で展開しきらなかったもの、あるいはまったく反対に、やりすぎてしまったもの。規則からはずれている、ちいさすぎたり大きすぎたりする、熟れすぎている、あるいは未熟な、気味が悪くて胸がむかつく、そういうものすべて。対称ではない形、増殖する、わきから枝葉が生えている形、または反対に、複数から単数に減る形。統計学が好むような、くりかえしの出来事には興味がない。家族のみなが満足げにほほえみを浮かべて祝う行事には。わたしの感受性は奇形学的で、怪奇好き。まさにここに本当のわたしがいる、わたしの本質があらわれているという確信がつきまとって離れない。(p.18)
わたしに痛みをもたらすものを、わたしは地図上で白くぬりつぶす。つまづいたり、ころんだり、攻撃されたり、痛いところをつかれたり、そこでなにかの具合が悪くなったり、そういう経験をした場所は、わたしの地図から姿を消す。/この方法で、いくつかの街と、ひとつの村をぬりつぶした。もしかしたらいつの日か、国をまるごと消すかもしれない。地図はこれを寛大な心でわかってくれる。なぜなら地図は余白が恋しいから。それは彼らの幸福な子ども時代。(p.97)