2018年12月14日金曜日

あれは遺影だったのかもしれない、と今になって思い至った。題材に自画像を選んだのも絵を展示していた学祭が終わってすぐに髪を切ったのも特に理由があってのことではなかったけれど、結果としてはある特定の自己像を自分から分離させる過程だったといえる。特定の自己像、有り体に言ってしまえば世間知らずの女の子としての私だろう。大学に入ってからの新鮮味と不自由さを体現するその像には愛着も嫌悪もあった。3年弱の間それをかぶって戦地を生き延びてきたことを思えば単純に捨てるには忍びなく、カンバスの上にそれをとりのけておこうと思ったのかもしれない。展示を見て「ちょっとこわい」とのコメントを残していった名も知らない人の気持ちを想像する。よくわかる。私もこわい。あの絵に何がうつっているのか自分でも完全にはわからない。ひんやりとした情念があるように見える。矜持が見える。自己防衛のための見せかけの軽蔑が見える。結局はそこが私の弱点であり限界であるのだろうと思う。

2018年12月9日日曜日

映画感想メモ

*アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ@出町座
12/8『不滅の女』
カメラの移動と画面の人物の目線移動がシンクロして、水中か夢の中のような妙に平坦で張り詰めた時間が流れていく。イスタンブールの情緒が夢幻的な艶かしさを増幅させる。意味ありげに繰り返し現れる伏線的要素は最後まで明らかにされることがなく、その判然としない感じは女の辿った運命を終盤で男が強制的になぞらされることの衝撃で打ち破られる。ただ受け入れるよりほかない、避けがたい悪夢のような暴力性。絵画のように静止した画面の中で服の裾や髪だけが風に揺れているのが好きで、園子温の『ひそひそ星』の荒廃した地球を少し思い出した。決して正体を明かさない謎めいた女は魅力的だけれどわたしはそうはなれないなあ、ていうか現実の人間のほとんどはなれないよなあ。と思いました。

2018年12月7日金曜日

内なる書物の共有不可能性

教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。(pp.33-34)
われわれが話題にする書物は、「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合〈遮蔽幕としての書物〉でしかない。[中略]二人の各々が、独自の内的プロセスを経て、 ひとつの想像上の書物を作りあげているのである。つまり二人は同じ書物について語っているのではないのだ。こうしてこの書物の自己投影的性格はいやがうえにも強まる。それは二人の幻想を受け止める器となるのである。(p.85)
たとえばわれわれの恋人選びは、読んだことのある小説の登場人物に大きな影響を受ける。われわれは小説をつうじて到達できない理想をいだき、恋する相手をその理想になるべく近づけようとするのである。それがなかなかうまくいかないことはいうまでもない。より広くいえば、われわれが愛した書物というのは、自分が密かに住んでいて、相手にも合流してほしいと思うひとつの世界全体を浮かび上がらせるのだ。 二人の読んだ書物がすべて同じだとはいわないまでも、少なくとも読んだ書物のなかに共通の書物があるということは、愛する者どうしが理解しあう条件のひとつである。関係のはじめから、相手に自分は共通の読書経験をしていると感じさせることで、自分が相手の期待に応えられる人間であることを示す──そのような必要もそこから生まれる。(p.162)
しかし二人の人間が互いの〈内なる書物〉を──ということは互いの内的宇宙そのものを──一致させることは、フィルのように時間を無限に繰りかえすことができる世界にでも住んでいないかぎり、現実には不可能である。 (pp.170-171)

 『読んでいない本について堂々と語る方法』から抜粋、すべて新奇な考えというわけではないけれど改めて言語化されるとああそういえばそうだったね、見ないふりをしてきたけれど光の下に差し出されてみるともっともなことだねと思う。

つねに〈他者〉が聞きたいと欲している言葉を発すること、まさに〈他者〉がそうあってほしいと望んでいる人間であること、それは、逆説的ながら、〈他者〉を〈他者〉と認めないことにほかならない。逆にいえば、それは、みずから〈他者〉に対して脆く不安定な主体であることをやめることである。(p.172) 

読書/未読書のテーマから少々逸脱したこの箇所が一番印象に残る。他者を他者と認めないこと、他者を自分の拡張とみなそうとすること、意見を擦り合わせる労力なしに意識下で通じあおうとすることの怠惰、なんたる怠惰。それは現実に起こりえないことであるにしても幻想としては存在し、その幻のなかでは自己と他者の輪郭が溶けだしてあいまいに混合される。境界線が崩れていくことは恐怖であると同時に快楽でもあるから厄介だなあ。

かきこわし

おかしいのはわたしの方で、だってもう傷つきたがっている、傷つきが足りなくなっている。このあいだ処方してあげたばかりでしょう、医者は呆れ顔、そうだわたしは呆れられたい、呆れながらそれでもあなたを見放しはしませんよと言外の寛容さをのぞかせた顔をさせたい、でも誰に? 喉元過ぎれば熱さを忘れる要領で刃が上がればギロチンを忘れ、断たれた首は断面があんまり滑らかなのでぴったり元の位置に収まって、処刑の前日に誰かが刃を研ぎすぎたのだ、もっとぎざぎざ錆びついていればわたし死んだままでいられたのにね。わたしの血小板はことばでできているらしく、血が流れるやいなや血流にのって押し寄せてくる活字の群れが、破れた血管のうえに巧妙に網を張る、みたこともないようなあたらしいつなぎ目。すみずみまで探検するには時間がかかるからあんまりはやくなおりきってしまわないようにあらがってあらがって、そろそろ限界がくる、傷つきが足りない。

2018年12月6日木曜日

寝室

まだ生きているそれを殺すのどんな気持ちだった。わからない、どんどんわすれていくよ、時が経っていくからね。どんなふうに手をかけたの、どんな顔でみていたの、みるみる目減りしていく命を、そのときのあなたは今のあなたと同じ人? そのときのわたし、もうずっとずっと深い底へ沈んでしまったから、沈んでいくそれを追いかけて身を投げることもできたけれど、岸にたたずんでただ見ていたから、白くて長い衣の端が青緑の奥へと逃げていく優美な動きの残像しか残っていない、ほら、見えるでしょ。絵を描く暇なんてなかったよ、だってあんまりあっという間のことだったから、だけど言葉にはほんの少しだけ写しておいた、だってあんまり綺麗だったから。そう、あのときあの場所でなかったら生まれなかったはずの美しさだった、生まれたばかりで死んでいくものだけが放つ痛ましい輝きだった、まぶしい光を散らかしながら薄い破片が飛んできて、首筋に刺さって血が流れた。温かく零れる血もいずれ冷えて固まり、だけどわたしは、ぼくは、おれは、きみは、きっと性懲りもなくまたそれを信じるよ、信じていいよ、醜いままでそれは美しい、凍りつく冬の夜空のように透徹してきみを、抱きしめるよ。そして再び来たる満月の夜、上品にきらめく針の一突きが心臓に穴をあけ、糸を通して染め上げるよ、きみが楽しんだぶんだけ、苦しんだぶんだけ、その色は濃く深まって、するする通り抜ける糸を追って、重力の腕にすべてをゆだねる気もするする失せていく。その糸で何を織るの、何を織ってもいい、ただ自分のためだけに、自分のどこかを繕い塞ぐためだけに使わなくてはいけない、それがどこかって、もうわかっているでしょう、その作業が終わったときにはすべてが元通り、何も心配することなんてない。何も心配することなんてないよ、ほら夜明けの最初の光が、まだ見えないけれどあの山の裏側を温めて、もうすぐ乗り越えてこようとしている、もう部屋へ帰りなさい、扉は静かに閉めて、皆を起こさないように、それじゃ、ゆっくりおやすみ。

2018年12月2日日曜日

ここは心象と言葉遊びの庭に建てた城だから、書いていることは事実と必ずしも符合しないことをことわっておく。誰にも向けられずただ一人遊びのためだけに生み出される言葉は、伝えたり伝えられたりする言葉は、あと一押しで告げてしまう瀬戸際で踏みとどまっている言葉は、どれもそれぞれに楽しい。告げた言葉がつくる自分と告げなかった言葉がつくる自分。告げなかった言葉を積みあげてつくる城。祝福と呪いが一体となるまでに考えつめているひとのこと。ずっとずっといつまでも、海の底みたいに青く揺蕩う光の中で生きていてほしい。煩わしい現実から隔絶されて、静かに連綿と続く美を愛して、自分の秩序に適うものだけに囲まれていてほしい。いつかそこを出なくてはならなくなったときには灯を吹き消すことを選んでほしい。そして本当のすべてが始まる前に、夜明けの光が射し込む前に、呼吸を止めてしまえ。

2018年11月30日金曜日

11/30Fri

 学祭の出店で買った浅めのカップの使い勝手がおそろしく良い。軽くて手が疲れない。材質の特性なのか、熱を伝えにくい。電子レンジで温めても器本体や取っ手が熱くならないので、すぐに触ることができる。これが一番ポイントが高い。極めつけに、容量が丁度よい。ここ数日はココアに凝っていて、純ココアと砂糖を小さじ山盛り2杯、牛乳120mlをミルクパンで弱火にかけ、少し手間をかけて一杯分を淹れているのだけれど、この120mlがちょうどカップの8分目に相当する。あまりにぴったりで感動してしまう。実用性に加えクリーム色と青色の混ざったやわらかな色合いも可愛らしくて、文句のつけ所がない。市販の商品でもこんなに気に入るものに出会えることはあまりない。わたしが買った品の作者は他にも同じ型のカップをいくつか出品していたのだけれど(値段の横に名前が書いてあった)、もうひとつくらい買っておけばよかったと思ってしまう。
 少し調べてみると、陶器と磁器では磁器の方が熱伝導率が高く、熱しやすく冷めやすいようだ。反対に陶器は熱伝導率が低いので熱しにくく冷めにくい。ということはこのカップは陶器である。磁器に比べて陶器の熱伝導率が低いのは、緻密性が低く内部に空気が多く含まれているからだという。なるほど、軽いのはそういうわけか。奥が深い。陶芸にも手を出してみたくなってくる。

 卒業を1年延ばすことについての意志はある程度固まってきているけれど、具体的なことは決まっていない。

 髪をずいぶん切った。ついつい鏡像を追いかける。何でもできそうな気になってくる。

読みかけている本。
*ダニエル・C・デネット『心はどこにあるのか』
来週に控えた発表準備からの現実逃避で先日買い、冒頭を読み始めたところ。
*高橋澪子『心の科学史』
前半のプシュケー・プネウマの変遷のところで躓いている。この本は註が物凄く細かくて註の註の註くらいまであり、ひとつひとつ参照しながら読んでいるとどうにも進まない。アリストテレス等の思想をパラフレーズしながら説明しているのだけれどいかんせん文章が抽象的で固いので読みにくい。

読みたい本。
*隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』
最近話題になっている気がする。著者は科学史家。心理学は文系とも理系とも言い切れない学際的な分野なのでわたしは自分がどちらに属すとみなされるのかはっきりしない。
*森田真生『数学する身体』

11月が終わる。感傷に浸る間もなく師走が駆け足でやってくる。

2018年11月27日火曜日

祭りの後

 今なら読める、という気分のふくらみに衝き動かされて、ずっと放っていた幾冊かの本をめくっている。とりとめのない言葉から夢想の糸を引き出し織り上げていく行為には相応の構えが必要になる。
 4日間の祭りの熱がさめていく裏で別の憑き物も鎮まっていったようだった。見失っていた錨をふたたび滑らかに騒ぐ水の中に潜り込ませ、昏い底まで慎重に下ろす。小さな船が揺れ動くことがあっても、当分のあいだは一定の半径より外に出ることはないだろう。どんなに薄く広がり微かになったとしても、一度生まれた波紋はいつまでも消えずに漂っている。どんな出来事であっても起こらないよりは起こった方が幾分かましだ、と聞いて、そうかもしれないと思う。蒸留された救いと罰をほんのときどき思い出したように舐めてみる。
 ただ呼吸をしているだけで、裸でいばらの中を分け入っていくような事態に自然と陥っている自分を見つけることになる。自分の意志で踏み込んだのでしょう?わたしに拒否権は与えられない。感謝と無関心の真綿で棘のひとつひとつをくるんでやる。だんだん厚く硬くなる皮膚はいずれ小さな棘に血を流すこともなくなるのだろう。痛覚の鈍化とともに生の輪郭も薄れて、世界に溶け込んでいく。きたるべきときに正しく喜び正しく悲しむことができるように、ざらついた痕跡を書きつけておいてやる。
 毎日行くところがあるということはそれだけで随分と心の支えになるもので、ただそれだけの理由でわたしは大学を愛している。大学は大きな公園のようだ。多くの知らない顔と少しの知った顔が行き交い、ごくたまに一方的な、あるいは相互の干渉をもつ、ゆるく浅い生態系。
 あと3年半経てば四半世紀生きたことになってしまうのだと思い至り、その途方もなさに頭の奥がひやりとした。

2018年11月17日土曜日

今週の映画

 『ピアノ・レッスン』美しくて淫らで残酷で、手に汗握って見てしまった。青みがかった画面が綺麗でいい。浜辺でピアノを弾く場面が好きだ。声を失った彼女は愁いを帯びて魅力的で、禁欲的な色気を感じさせる。余計なことばかり口走って後悔するくらいなら私も口がきけない人間であればよかった、と思ってしまう。聞く価値のあるおしゃべりなんて本当に少ないのだから。それにしても彼女の子供と夫はなんて残酷なのだろう。愛の前には皆等しく残酷になるのかもしれない、しかし本当にそうだろうか。身勝手な執着や裏切られた悲しみと怒りや手に入らない対象への憧憬や、そのほか種々雑多なものが愛の名のもとに押し込められているのではないのか。男が愛したのが彼女の沈黙そのものや、沈黙によって守られているように見える未知なる領域であったとしたら、ピアノとともに自分の中の沈黙を殺してしまった彼女に対してもその愛は続くだろうか。などと考えてしまうのは野暮なのだろうな。
"Girl, Interrupted"、邦題『17歳のカルテ』を見たのは通算2度目か3度目か。主人公はアスピリンとウォッカを1瓶ずつ飲んで搬送され、世間体を気にする両親によって精神病院に入院させられる。張り詰めた糸がいつ切れるか、いつ誰が激昂して泣き出すか。不安定で痛々しくて、それでも不思議と軽やかで痛快で愛おしくて、好きな映画だ。ハイティーンの女の子の心の揺らぎの結晶のような作品。私は病名をつけられたことはないし、思春期を過ぎた今はもうこの女の子たちみたいに実際に泣き叫んだりはしないけれど、泣き叫びたい気持ちはまだ残っているのだと思う。でなければこの映画を見ることで抉られる心の痛みを快く感じるはずがない。中断された、さえぎられた少女。
 『マトリックス』で地下上映会をした。夏の集中講義で別々の先生が異口同音に勧めていたのでずっと見たいと思っていた。現実だと思っていたのは実は意識が見ているバーチャル世界の夢だった、というような構造なのだけれど、仮想世界で意識が命を落とすと現実世界の肉体の心臓も止まるのが面白い。アバターが死んでも何度も生き返るゲームとは違って、ここでの意識と肉体はどちらが欠けても成り立たない不可分なものらしいのだ。夢での死と現実の死、意識の死と肉体の死が等号で結ばれる。しかしそれなら命の本体はどこにあるのだろう?やたら決めポーズの多い格闘シーンは笑いどころ。
 『天使の涙』、原題『堕落天使』。ウォン・カーウァイの映画に出てくる女性たちはすましていて感情が読み取れないか、極端に無邪気で感情に素直かの両極端のような気がする。あるいは言語の特徴がそう見せるのだろうか。広東語の響きは日本語とは違った種類の強引さを感じさせる。話の筋らしい筋はほとんどなく、軽薄で色鮮やかでお洒落。よい雰囲気ものだった。


数週間前まで映画や小説をまったく受け付けない状態だったのに、今はとりつかれたように物語を摂取している。そういう時期なのだろうと思う。

2018年11月16日金曜日

そして儚いもの

 ドアノブに手をかけながら、スカートのひだを直しながら、プリントを乱雑にしまい込みながら、首筋に弾丸が撃ち込まれる感触を陶然と思い浮かべながら、我知らず、なかば自動化された滑らかさをもって唇が動く。"─────────────"という言葉をかたどって、感嘆と軽蔑を同時にうたいあげるような空気の震えを伴って唇が動く。現実にある具体物のすべてはこの言葉の対象ではない。繰り返されすぎた文はもはや実質的な意味を失っている。存在しないものに向かってはきだされつづける透明な何か。火をつければ燃える灯油、容赦なく人を呑み込む夜の海、あるいは目に見えない砂漠。
 砂時計の中にとらわれてしまったかと思っていた。足元の砂が一点に向かって吸い込まれていき、傾く体を何度立て直しても安定を崩され、砂は永遠になくなることがない。砂時計を持っているのは私で、ガラスの中に閉じ込められた私を見ている。楽しみながら苦しんでいるような表情で、詩の一節を諳んじるかのように何かを呟いているけれど声は決して聞こえず、触れてもいないのにその唇が冷え切っているのがわかる。
 毎日の几帳面なベッドメイクでやっと平衡を保っている脆さと、弦が何本切れても演奏が続行されるぞんざいさとが貼りあわされた怪物のことを日常と呼ぶ。

2018年11月15日木曜日

生活

 生活に没頭している。幾度目かの儚い熱中。
 体重と部屋の無秩序と心の安寧を少しずつ失った秋だった。それ自体は結構なことだ。歓迎すべきことかもしれない。家具の配置を変えたのでベッドの上から映画を見られるようになった。惜しむらくは映画鑑賞用デスクトップを置いている机が目線の高さより低いこと。
 花と暮らしている。自分のためではなく花のために空間を整え、生活を保つ。この部屋の主人は花弁の縁が黄ばんだ散りかけのばらで、わたしは彼らに仕える小間使いだ。おやすみ、おはよう、いってきます、ただいま、胸の内で唱えながら花に顔をうずめる。心に波が立ちそうになるとそこに目をやる。小さなアジール、聖域。たとえそれが人間のエゴによって半分殺されているにひとしい切り花であっても、わたしはただ自分のために花を愛する。
 執行猶予申請書類を手に入れた。3月までに心を決めなければならない。春休みにはフランスへ行こうと思っている。
 弾丸帰省の往路で村上訳の『フラニーとズーイ』を読み直した。以前読んだ時には小気味よく感じられたはずの会話が、今はひたすらに重く疲れさせるものに見えた。「バナナフィッシュにうってつけの日」で長兄シーモア・グラスが自殺を遂げてから7年後のグラス家、末弟ズーイとその妹フラニーの物語だ。フラニーは大学に氾濫する「教養」がすべて無価値なものに見えるといって宗教実践に救いを求めたすえ、神経を衰弱させて実家へ帰ってくる。対してズーイは、教養のくだらなさについては数少ない具体例を過剰に一般化して嘆いているだけであって、宗教にしても彼女は聖人を本当に理解しているのではなく、雑多な「善い」人格のごった煮でできた都合のいい人格を当てはめて信仰しているにすぎない、と諭す。彼は不純な信仰をやめろとは言わない。自己欺瞞はそれ自体としては悪いことではない。しかし、それによって見落としているものに目を向けよ、と言う。たとえば母親が彼女を心配して運んでくるチキン・スープ。
 サリンジャーは精神分析をずいぶんこき下ろしている。自殺したシーモアにも分析医は有効な手立てを施しえなかった。ズーイ曰く、頭脳のつくりが単純な人間に限っては精神分析の解釈によって幸せになることができるかもしれないが、高等な頭脳の持ち主には底の浅さが見え透いているということらしい。50年代アメリカの中産階級において精神分析はかなりカジュアルな選択肢であったことが窺えるけれど、普及とはすなわち大衆化、陳腐化でもあるのだろう。
 三島由紀夫の『音楽』を読んだ。65年刊行、精神分析医の手記という体裁をとっている。これは精神分析をアクセサリーかスパイスのようにいいかげんに散りばめたよくある話ではなく、かなり真剣にテーマの中心に据えた小説だなと思う。巻末に参考文献まで載っていて、語り手の分析家はビンスワンガーの現存在分析に依拠している。ところどころに三島の精神分析観があらわれているようで興味深いけれど、三島自身は精神分析の否定論者であったらしい。精神分析的な言葉の力が現実の局面の持つ力に敗北する過程の物語とも言えるのだけれど、人間がいかに想像を超えた複雑な存在でありうるかということを思い出させてくれるスリリングな話だ。

2018年11月9日金曜日

1109Fri

頭は痛まないし、回鍋肉は食べなかった。きちんと出ている授業はそうでない授業より少ないし、洗濯機を毎日回して生活している。洗濯機の回転が日々を循環させる。睡眠時間は十分すぎるほどで、夢は見ない。隣に座った人が親の仇を潰そうとする勢いでキーボードを叩く音も全くもって気にならない。わたしはいま眠気から最も遠く離れたところにいて、おそろしいほど頭が冴えわたっていて、冴えわたりすぎて消えてなくなりそうだ。本は一冊も読んでいない。人類愛に満ち、部屋は整然と片付いている。天井に模様はない。

11/08Thu

夜中、大学の地下で冷蔵庫と対話しながら、今日の朝から読み始めていたオースターの『ムーン・パレス』を読み終える。誰もいない部屋でこちらが深く息をついたあと一瞬の間をおいて冷蔵庫が唸りを発しはじめると、あ、今返事をくれた、と思う。以下太字引用。

いろんなことを考えすぎた、本を読みすぎた若者の情熱と理想主義とに導かれて、僕は、自分がなすべき何かとは何もしないことである、という結論に達した。僕のなすべき行為とは、いかなる行為も戦闘的に拒絶するという行為なのだ。いってみれば、美的次元まで高められたニヒリズム。僕はわが人生を一個の芸術作品に仕立て上げるのだ。

「君は夢想家だからなあ」と彼は言った。「君の心は月に行ってしまっておる。たぶんこれからもずっとそうだろう。君には野心というものがないし、金にもまるで興味がない。芸術に入れ込むには哲学者すぎる。どうしたものかなあ。君には面倒を見てくれる人間が必要なんだ。腹にちゃんと食い物が入って、ポケットに何がしかの金があるよう気をつけてくれる人間が必要なんだ。わしがいなくなったら、君はまた元に戻ってしまうだろう」

すべては結びつきの欠如と、タイミングの悪さと、無知ゆえの盲動の結果だったのだ。僕らはつねに間違った時間にしかるべき場所にいて、しかるべき時間に間違った場所にいて、つねにあと一歩のところでたがいを見出しそこない、ほんのわずかのずれゆえに状況全体を見通しそこねていたのだ。


「何を見ても何かを思い出す」というヘミングウェイのまだ読んでいない短編のタイトルが急に思い浮かんで、その通りだなと思う。凡そ記憶を喚起しない事物というものが身の周りから少なくなりつつある。それはなんだか親しみに満ちた柔らかな牢獄のようだ。何も思い出さないものを見に行かなくてはならない。

2018年11月6日火曜日

11/05Mon

ふと気がつくと隣にいてひっそり寄り添っている獣がいる。それは中身のない毛皮であり、内臓がからっぽの猫であり、名をかなしみという。撫でるとふかふかとやわらかくてやさしいけれどあたたかみは感じられない。抱きしめるとふにゃりとつぶれる。撫でたときの感触だけが手のひらに残ってかなしみを持続させる。かわいいやつ。

一生縁がない作家だと思っていた舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』をもののはずみで読んでしまった。人体に寄生する謎の虫「ASMA(アズマ)」って東浩紀のことですか。というかこのへんの作家たちの、いわゆるゼロ年代?の一種のムーブメント?があったんですか?を、初めて知った。西尾維新やらのライトなノベルをまったく読まずに(むしろそれらを文学の範疇に含めることに若干の抵抗を感じながら)育ったわたしにはやっぱり縁がないジャンルなのかもしれない。けれども21歳のわたしが中学生の頃と同じカチコチの頭を維持していく必要はもはやないわけで、21歳以降のわたしが新しくライトノベルを楽しめるようになったとしたらそれはそれで喜ばしいことだ。

このあいだ食べに行ったカレー屋の非人道的なナンのおかげで調子を崩していた胃腸たちが、ようやく元のリズムを取り戻しつつある。ナンひとりぶんがMサイズのピザ1枚分と同じ質量という狂気のお店。

いなくなったねこがすがたをみせない。

2018年11月4日日曜日

線を引く

あっ。しまった。やってしまった。忘れていた。ライブチケットの入金を。またかー。まただ。取り直さなきゃ。
わたしはあまり後悔というものをしないたちで、といっても昔はずいぶん執念深く後悔していたけれど最近はかなり前向きな性格になってきたので、残念なことがあってもすぐ切り替えて次に行ける。オッケー、終了。次行こう。魔法の言葉だ。だけどそうしたら今度は自分にとって何が本当に大切なものなのかが分からなくなってきている。何でもさくさく諦めていけるような気がしてしまう。もっと力一杯後悔したほうがいいのだろうか。しかしわたしは過去を愛してはいるけれども「後悔」とか「未練」とかの粘着質なフレーバーはすきではないのだ。過去を泥沼にしたくないのだ。からっと乾燥した風通しのいい納戸みたいであってほしいのだ。
自己韜晦ということばを知って、それだ!と思った。本心や才能を隠すこと。姿をくらますこと。フロイトはそういう人間だったらしい。わたしもそういう人を知っている。ある意味でわたし自身もそうかもしれない。いや、そんなことはない。いつでも自分のことをわかってもらいたがっている。そしてそれは幻想の中でしか実現しえないことを知っている。ポーズとしての自己韜晦。自己の醜さを覆い隠すための。一線を引くことで傷つきを免れる。ファンシーな色をした臆病な蠍たち。
チケットは無事取り直した。12/16。たのしみだ。
灰色の男たちにどやされそうなくらい時間を浪費している。
好きな文章を読んでいるといつのまにか書き手の思考を先取りしていることがある。どこまでが自分由来でどこからが他人由来の言葉なのかわからなくなる。思考の境界が溶け合っていく感覚は気持ちがよくて不安になる。線を引かなければ。
パスタをゆでる。ペンネをゆでる。湯の中で踊るたくさんの中空の短い管。昇ってくる泡のひとつひとつに自分の顔がうつっている。いつも鍋に塩を入れすぎる。わたしはわたしの命をつないでゆくための餌を自力で用意することができる。もちろん文明の利器の力を借りて。安堵する。些細なこと。
クレイジークレイジー、つまんないこと言うくらいなら口が永久に開かないようにしてしまおうね。

どうやらそういうことになっているらしいのだ

まっ赤なハイヒールがほしい。まっ赤なハイヒールを買うべきだ。という啓示が降りてきたのでまっ赤なハイヒールを探す。ハイヒールは元来苦手なのだ。腰が弱くて、4㎝のかかとで2時間も歩けば気がくじける。だけど啓示が下されたので従うよりほかない。6㎝か7㎝の気高い見かけをしていて、綺麗めにもぼろぼろのジーンズにも合わせられるやつ。いつか、いつかね。

自己愛を飼い慣らしている人が好きなのだと思う。愛すべきナルシシスト。自己陶酔の中をくるくると旋回しながら踊り続けた末に二本の脚を絡ませて倒れる。息を弾ませて。自分の吐いた息で充満した密室の中で深呼吸をする。はるか遠くを見ているようで、実は自分の内部の暗がりだけに注がれているまなざし。
この選好は私自身の自己愛の拡張なのか、自己愛者になりきれない私が他者に対して抱くあこがれなのか、よくわからない。摩擦が起きない程度の距離を保って見ているのが双方にとって幸福なのかもしれない。そうやって他人を観察対象の地位に置いておくことで私は心を平穏に保っていることができる。鏡のように。静かな湖面のように。それはとてもとても寂しいこと。心をみだされることに不慣れだから、そのたびごとにジェットコースターが山を下るときくらいの衝撃を被る。心臓が止まりそうになる。死に近づく。だから、ヤドリギのような執着をひきはがす。寝ても覚めても鉄の味。心臓の裏に絡んで締めあげる蔦。そのうちに薄くやわらかい膜が張る。触れると鈍くて甘いいたみ。傷口を大切にホルマリンに漬けて標本化する。よかった。難破せずに済んだ。なまの花束を放っておくと案外きれいにドライフラワーになる。海辺で火をつけたらよく燃えるだろう。

何も考えていないのだ、何も考えていないことを直視しないためにキーを打っている。言葉という玩具を持っていられることに感謝する。


東京でしかやらない芝居が観たい。ダンスが観たい。ライブやコンサートにももっと気軽に足を運びたい。ということは東京で就職するべきなのだろうか。やはり。
進路について迷いに迷っていてそろそろ回線がショートする。以前はとりあえず修士に進もうかと思っていたけど動機がとりあえずってどうなの。と自分で突っ込みを入れてしまった。博士に進むつもりは、ない。多分。いったん社会に出てみてもう一度学問をやりたくなったら院に戻るのがいいかもしれない。そう言っていた知人もいる。どこにも正解はない。正解がないなかで選択をする。
学部の先輩たちがシュウショクカツドウの経験談をおはなししてくれますよ、という会に行ってきた。熱量はさまざまだった。個人の体験はどこまでいっても一般化不可能なものだから、参考になったかといわれればあまりならなかった。シュウショクカツドウとは世俗化された社会における通過儀礼のようなものなのか。一定の年齢に達した者は労働市場の名のもとで雑多な評価軸に身をさらす。どうやらそういうことになっているらしいのだ。

心理学のどこが好きなのか、なぜ選んだのかと問われれば、人間の内面に興味があったから、と答えるのだろうか。違う。興味があったのは自分の内面だけだ。自分の心を御していくやりかたがわからずにくるしんでいただけだ。だけどわたしの専攻は臨床ではない。実験心理学をやる理由は、心を扱いながらも科学的な手法をとることで心の曖昧な領域に触れずに済むからか。それは当たっている。心の曖昧な領域は時として凶器になる。わたしは何よりも我が身が可愛い。最低限より多くは傷つきたくない。
心理学と社会学の違いは、人間の行動の原因を個人の内部に求めるか社会構造に求めるかの違いであるという。わたしはもう社会なんてどうでもよくなりかけている。部屋にテレビはない。新聞も取っていない。集団としての人間の行動レベルでの傾向にもとくに興味はない。
人の思考の流れとか、目に見えないものについて考えたい。だから認知心理学になる。言葉が好きだ。となると言語心理学か認知言語学か。なんだかもうよくわからなくなっている。

『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』を読んだ。『分析哲学講義』と『功利主義入門』を昨日買った。その前の日はサガンの『悲しみよこんにちは』を買った。その前には谷崎の『蓼食う虫』と穂村弘のエッセイを買った。さらに前には岩倉文也の詩集を買った。売野機子の漫画をまとめて数冊買った。『手紙読本』と『朗読者』を買った。三島由紀夫とメルロ=ポンティとシモーヌ・ヴェイユを買った。節操がない。ほんとうにどうかしている。どうかしていないと生きていられない。どうやらそういうことになっているらしいのだ。

2018年11月2日金曜日

この一ヶ月で呆れるくらい本を買った。軽く見積もって10冊は下らない。
半分強はすぐに読んで、半分弱はまだ積んである。意識を自分の内面から逸らす手段として読書は最適だ。哲学の入門書、軽いエッセイ、日本近代文学、準古典的な翻訳小説、漫画、大体そんなところか。ようするに、現実逃避がしたいのだ。

最近話した人が、自分の過去を現在につながるものとして思い出したことがない、と言っていた。断片的に思い出せることも靄がかかったようではっきりしないらしい。
驚いた。私はまったく逆だった。その時感じていたことを忘れてしまうのが怖くて、肌理をなぞるように隅々まで思い出そうとする。その過程で、ひとつひとつを美しいエピソードの形に成型して磨き上げていく。傷ついた経験も飴細工の傷口に変わる。そのような想起に堪えないほど嫌な記憶は、おそらくそれ自体としてなかったことにしてしまっている。厳選された記憶だけを、昔買ったレコードを繰り返し聴くように、箱にしまった光る石を時々取り出して眺めるように、曇った鏡を磨いて自分の顔の細部を確認するように、いとおしむ。過去をむやみに大事にしようとするのは、昔から変わらない私の性質のひとつ。
別の人は、数か月前までの記憶なら想起に堪えうるけれど、昔になればなるほど当時の自分が許せなくなる、と言っていた。これも私は真逆だ。昔のことになればなるほど、恥や悔恨の念は薄れていって、角の取れた甘やかな物語になる。喉元過ぎれば熱さを忘れる、というやつで、なるほど私の過去からの学習能力は相当低い。

過去が遠ざかるほど自分も他人も許せるようになるのは、徐々に細部を忘れていっているからだという気がする。例えば文章となると勝手が違う。自分の書いた文章を読み返すたびに修正を加えたくて仕方がなくなるのは、文章は書いたときのまま残り続けているからだ。読み返すたびに書いたときの自分の状態が蘇ってくるからだ。まさにそのために、つまり書いたときの自分の状態を再体験可能な形に固定しておくことを目的として、私はブログやらTwitterやら日記めいたものを書くのだが、まさにそのせいで、つまり書いたときの自分の状態が固定された結果として過去を許すことができなくなるからこそ、日記が続かないのだ。難しい。

繰り返し聴いたレコードがいつか擦り切れてしまうことが怖い。しまっておいた綺麗な石が磨きすぎてなくなってしまうことが怖い。近頃の私は、過ぎ去っていくそばから記憶と感情を結晶化させて標本にすることに異常な力を注いでいた。標本はまだ生々しさが残っていて不完全だけれど、時を経て、半年か一年、二年も過ぎたらきっと完璧になる。時間が止まる。完成態としての死に近づく。

ひとりでいると、心が凪いでくる。これが自分だった、という気になる。
でも、それは違うということを私は知っている。
誰かといるときの自分とひとりでいるときの自分に序列をつけることはできない。